第1話 近寄らないで
第1話 近寄らないで
『……人夫どもが鍬を手に山へ向かった。止められなかった』
『あの狐の悲鳴が今も耳から離れない。沼が黒く染まっていく』
『明日、トンネルの最後の破砕を行う。山が鳴動している――』
古い冊子を閉じ、蔵の天井ちかくにある窓に視線を移すと、舞い上がった埃が光の筋を作った。
口に巻いたタオルの中で、息を吐いた。
「ん? 『明治三十三年』……じいちゃんのじゃないな……曽祖父の日誌か?」
「光司、お母さんこれで帰るわよ。ここから通うんでしょ?」
蔵の入り口から顔を覗かせた母は、帰り支度を済ませていた。
「ああ、今住んでる場所より職場に近いからな」
入社五年目で、この郊外の流通センターに転勤になった。
社宅もあったが、祖母の住んでいたこの家が近いことを思い出し、ここに住むことにした。
「ご飯、作っておいてあげたから、じゃあね!」
亡くなった祖母の古い屋敷は、俺が一人で住むには持て余すほど広い。
車で一時間ほど離れた、市内の実家とは、広さが比べものにならなかった。
「まだ四時か……、新鮮な空気でも吸いにいくか……」
暗くかび臭い蔵を後にし、狭い路地を抜けて誰もいない川べりの堤防に出る。
強い西日が差し込み、川風が下流へと吹き抜けていく。
遮断機の警報機が鳴り響き、川にかかる無機質な鉄橋の向こうから、二両編成の電車がやってくる。
目の前を走り抜け、山裾に口を開いた古びたトンネルに消えていくのを目で追った。
ふと踏切の向こうへ視線を戻す。
さっきまで誰もいなかったはずの線路の向こう側に、一人の少女が立っていた。
川風に肩下まで伸びた髪が揺れる。
西日に透けた毛先だけが、不思議なほど銀色に輝いて見えた。
グレーのマウンテンパーカーに黒のトレッキングパンツ。
色白でどこか異国情緒あふれる顔立ちと、背負ったリュックを見て、最初は外国人観光客のバックパッカーかと思った。
俺と目が合うと、彼女はすぐに川の方へ目を逸らした。
遮断機が上がり、踏切を渡ろうと一歩踏み出した俺を見て、彼女は視線を俺に戻した。
「近寄らないで!」
「あっ……すいません」
思わず謝ってしまったが、もちろん俺は何も怪しいことはしていない。
そのまま、線路を挟んで彼女と気まずい無言のにらみ合いになった。
「あの……俺は、ただ踏切を渡りたいだけなんだけど」
「近寄らないでって、言ってるでしょ!」
「俺が何をした……」
言いかけたところで踏切の警報機が鳴りだした。
俺と彼女は踏切を挟んだまま、再び降りてきた遮断機の前で沈黙する。
——なんなんだ、パーソナルスペース広すぎだろ……。
今度はトンネル側から電車が走り抜ける。
轟音が去った後も、彼女はそこに佇んでいた。
遮断機が上がり、彼女は鉄橋の向こうへ走り去る電車を見送り、ゆっくりと俺に視線を戻した。
「渡らないの?」
「……渡っていいのか?」
「もう大丈夫よ……」
「君が言わなくても、遮断機も警報機もあるだろ」
「そうなの? ひかれたら、かわいそうだと思ったのよ」
「……ひかれないために遮断機があるんだよ、じゃあな……」
呆れ半分で踏切を渡り、彼女とすれ違う。
——日本語は完璧だったけど、変なやつだな。
そのまま川沿いの道を歩き出したが、進むにつれて民家もなくなり、人影のない寂しい道になっていった。
「くそっ、コンビニどころか自販機もないのかよ……」
ズボンのポケットから、スマホを取り出して地図アプリを立ち上げた。
すると、すぐ後ろから声がした。
「あなたが来た方に、酒屋さんがあるわ。その前に自動販売機が二台あるわよ。コンビニは大きい通りの向こうにしかないから」
その声に驚き、顔を上げ振り返った。
「なんで、ついてきてるんだ……それに、詳しいってことは、この辺りに住んでるのか?」
「ええ、そうよ」
彼女は感情の読めない表情で、短くそう答えた。
俺は向きを変え、自動販売機があるというもと来た道に向かい歩き出した。
「来ないで!」
俺は訳がわからず足を止めた。




