第19話 雨を願う者
第19話 雨を願う者
雨が降り続く中、俺は母とともに集会所を後にした。
外に出ると、辺りはすっかり暗くなり始めていた。
傘を差し、隣に並んで歩く母が、ふと俺に優しく微笑みかけてくる。
「みしろちゃん、本当に良い子ね。お母さんもあの子のこと、大好きになっちゃったわ」
「ああ、そうだな……少し変わってるけど、根はすごく素直で良い奴だよ」
「どこで知り合ったの? ……職場の同僚か何か?」
「いや、この辺りだよ。それに……俺が小さい頃にお稲荷様でも会ってたらしい」
「お稲荷様って……光司が昔、おばあちゃんと行って『狐を見た』って言ってた、あの神社?」
「……えっ!?」
「言ってたじゃない……昔、あの神社で狐に『シイの実』を分けたって話よ」
「それ……『山の分を半分だけ置いて帰れ』っておばあちゃんに言われたやつのことだろ?」
「違うわよ、三等分よ。『山の分』と、『そこに住む動物』の分と、そして『あなたの分』よ?」
母のその言葉に、俺はハッとした。
ずっと記憶の底に封印し、すっかり忘れ去っていた幼い頃の記憶が、鮮烈に脳裏に蘇ってくる。
……俺にとって、それは決して思い出したくない、苦い思い出だったからだ。
俺がまだ幼かった頃、おばあちゃんに連れられてよくあの稲荷神社へ行った。
秋の境内や山道には、どんぐりやシイの実がたくさん転がっていた。
ばあちゃんは『お稲荷様のすぐ奥にある白蛇様の祠までお参りしてくる』と言ったが、俺はシイの実集めに夢中になり、そこに残った。
夢中で集めたシイの実の三分の一を、ばあちゃんの言いつけ通り『山の分』として落ち葉の上に置いた。
そして、もう三分の一を小さな祠の脇に置いた、その時。
祠の影から、一匹の美しい『白い狐』が顔を出した。
俺は嬉しくなって、手元に残した自分の分のシイの実を、いくつかその白い狐に分けてやる。
狐はまるで礼を言うかのように頭を下げると、シイの実を優しく咥えて森の奥へと消えていった。
夢のような出来事に胸を躍らせた俺は、家に帰るとすぐに白いクレヨンを取り出し、白い画用紙いっぱいにその狐の絵を描いた。
だが、画用紙には何も描かれていないように見えた。
だから俺は、グレーのクレヨンを使って白い狐の輪郭をそっと縁取った。
縁取った輪郭だけが、そこに狐の形を残していた。
……けれど、学校でその絵を友達に見せても、誰も『白い狐』なんて信じてはくれなかった。
『そんなの嘘だ』『ただの犬だろ』と笑われた俺は、悔しさと悲しさのあまり、描いた白い狐の上から茶色のクレヨンで塗りつぶしてしまったのだった。
それ以来、白狐のことを考えないようにしていた。
——俺も、曽祖父と同じ『白蛇様の使いの白狐』に会っていたんだ……。
母と一緒に家に戻ると、玄関の土間に見覚えのある傘と、雨で濡れたみしろの小さな靴が並んでいた。
母はみしろに挨拶だけを済ませると、名残惜しそうにしながら実家へと帰っていった。
夕食が終わり、みしろは風呂に入っている。
俺はいつもと違い、あの古い手記を開く気になれなかった。
あの白狐の惨い結末を、これ以上読み進めるのが辛かったからだ。
俺が幼い頃に会ったあの白い狐と、手記に書かれた美銀は、関係があるのだろうか。
俺は居間の机の前に転がり、あふれ出る思考を遮るように両腕で顔を覆った。
「今日は見てないの?」
「うわっ!」
突然の声に驚き、慌てて顔を覆っていた腕を外す。
いつの間にか風呂から上がっていたみしろが、寝転がる俺の真上から顔を覗き込んでいた。
「安心しろ、俺はいつも覗いてないから」
俺も風呂に入り終え、そろそろ寝ようと自分の部屋に向かうと、昼間に雨を避けて庭からとりあえず運び込んだ二組の布団が、並んで綺麗に敷かれていた。
「みしろ、今日もここで寝るのか?」
「そうよ……光司がここに置いたから、一緒に寝たいんだと思って敷いておいたわ」
「いや、そういう意味じゃなかったんだけど。庭から近いから、取り敢えずこの部屋に放り込んだだけで……」
「そう。じゃあ、今日もここでいいわ」
部屋の電気を消し、互いに布団に入る。
外では激しさを増した雨脚が、夜の闇を叩き続けていた。
「みしろ……今日も、川の神社に行っていたのか?」
「知ってたんだね」
「ああ……今日知ったよ。川の神社に、何をしに行ってるんだ?」
「お願い事よ……『雨を降らせて』ってね。今日はそのお礼を言いに行ってたのよ」
「……雨? 雨を降らせることが、あの怪物と関係あるのか?」
「……音よ」
雨が屋根の瓦を激しく叩き、周囲の木々の葉をざわめかせる。
側溝を勢いよく流れる濁流の音や、雨水枡に流れ込む水の音が、ノイズとなって集落全体を満たしていた。
「そうか……雨の音で集落全体を包んで、あいつらの狙いを絞れなくしてるのか。でも……これじゃあ根本的な解決にはなってないよな?」
「明日の夜、この雨が止んだ時がチャンスよ」
「チャンス……? どういうことなんだ?」
「今晩は静かに寝なくても、大きな声を出しても大丈夫ね」
昨日のようにまた、俺の頭の中で口には出せないような不純な想像が一気に駆け巡った。
「おやすみ、光司」
「やっぱりそうだよな……おやすみ、みしろ」




