第一章25 「適応」
波の音が少しずつ大きくなり、視界の先に見慣れた浜辺が戻ってくるころには、美海の手の中にはいくつかの貝が握られていた。さっきまでの森の静けさとは違い、開けた空間に出たことで、どこか現実に引き戻されるような感覚がある。
拠点の近くまで戻ると、先に戻っていた朝陽と夕真の姿が見えた。二人は砂の上に座り、拾ってきた枝をまとめながら火の準備をしているところだった。
夕真が顔を上げる。
「お、戻ったか」
軽い調子だったが、その声にはわずかな安堵が混じっていた。
「うん」
美海は小さく頷きながら近づくと、そのまま手のひらを差し出す。
「これ、見て」
開かれた手の上で、貝殻がかすかに光を反射する。
「へぇ、いいじゃん」
夕真が少し身を乗り出して覗き込む。
「食えそう?」
「たぶん、加熱すればいけると思う」
凪沙が落ち着いた声で補足する。
その判断は迷いがなく、状況を冷静に捉えているのが分かる。
朝陽も視線を向ける。
「……結構あったのか」
「うん」
美海は頷くが、そのあと少しだけ言葉が途切れる。
「……あと」
ほんのわずかに声のトーンが下がる。
「ちょっと、変なの見つけて」
夕真が眉を上げる。
「変なの?」
美海は視線を落としながら、慎重に言葉を選ぶ。
「足跡、みたいなのがあって」
その一言で、空気が静かに変わった。
「……誰かいたってことか?」
夕真の声が、わずかに低くなる。
「分かんない」
美海は首を横に振る。
「新しい感じじゃなかったけど……私たちのじゃないと思う」
凪沙が補足するように言う。
「昨日の移動経路とは一致していないわね。少なくとも、私たちが残したものではない」
短い沈黙が落ちる。
波の音だけが、変わらず一定のリズムで響いていた。
夕真が、軽く息を吐く。
「まあ……ありえなくはないか」
少しだけ肩をすくめる。
「この島、完全に無人って決まったわけでもねぇし」
軽い調子を保ってはいるが、その奥にある警戒は消えていない。
朝陽は何も言わず、そのやり取りを聞いていた。
“誰かがいるかもしれない”
本来なら安心材料になるはずのその可能性が、なぜか素直に受け入れられない。胸の奥に、言葉にできない違和感だけが静かに残る。
「……まあ、とりあえず」
夕真が手を軽く叩くようにして空気を切り替える。
「飯にしようぜ」
その一言で、場の緊張がわずかに緩む。
焚き火を起こし、拾ってきた貝を火にかける。殻はゆっくりと熱を受け、やがて小さな音とともに開き始め、白い蒸気が静かに立ち上る。
「……いい匂い」
美海が小さく呟く。
その声には、ほっとしたような柔らかさがあった。
「昨日の魚もよかったけど、これはこれでいいな」
夕真が笑う。
凪沙が火の様子を確認しながら言う。
「食料の選択肢が増えるのは大きいわね。安定性が上がる」
「現実的だなぁ」
夕真が苦笑する。
そのやり取りに、美海も小さく笑った。
さっきまで胸に残っていたざわつきが、少しずつ薄れていく。
やがて火が落ち着き、貝にしっかりと火が通る。
それぞれが手に取り、口に運ぶ。
シンプルな味。
それでも、確かな満足感があった。
「……ちゃんと食ってるな、俺ら」
夕真がぽつりと呟く。
「うん」
美海が頷く。
「ちょっとずつだけど、ちゃんとしてきてる感じする」
凪沙も静かに言う。
「環境への適応は順調ね」
朝陽は、その会話を聞きながら火を見つめていた。
何も分かっていない状況は変わらない。それでもこうして食事をして、会話をして、時間が流れていく。その感覚だけが、妙に現実味を帯びていた。
「……なあ」
朝陽が、ゆっくりと口を開く。
三人の視線が向く。
「こういうの」
少しだけ言葉を選ぶ。
「前にもあった気がするんだよな」
その一言で、空気がわずかに変わる。
夕真が火を見つめたまま、小さく頷く。
「……ああ」
美海も静かに同意する。
「なんか、分かる」
凪沙が、わずかに目を細める。
「既視感というより、記憶に近いわね」
誰も、それ以上は言わなかった。
ただ。
四人で火を囲んでいるこの時間が、どこか懐かしいと感じていることだけは、全員に共通していた。
火が、ぱち、と小さく弾ける。
夜は、静かに深まっていった。




