ヨーグルトとフルーツゼリー(4)
その二日後。
週明けの月曜日、教室に入った私は、ランドセルを教室の後ろのロッカーにしまい終えたところで、女子たちの間の空気が少しいつもと違うのに気付いた。
しとしと朝から降っている雨のせいで、湿度が高くて空気が重いのはもちろんなんだけど、それを差し引いてもなお、違和感のようなものが残る。
「あ、朔子ちゃん、おはよう!」
私が席に着くと、隣席の孝美が挨拶してきた。
そこで、私は違和感の正体に気づいた。
孝美の席の周囲を、何人かの女子が取り囲んでいたのだ。
しかも、いつも孝美と仲のいい女子たちとは違うグループに属している子ばかり。
もちろん、孝美は私と違って社交的な性格だし、幼馴染とはいえ孝美の交友関係のすべてを把握しているわけじゃないけど、それにしても、こんな朝っぱらから親しく話しかけてくるような関係性の子たちではなかったはずだ。
ただ、険悪なムードではない。
人垣、という程ではないけれど、孝美は彼女たちに何かを話して聞かせていて、彼女たちの方では興味津々でそれに耳を傾けている、という感じだ。
「で、その後どうなったの?」
「あ、うん。その後病院で――」
取り囲んでいる女子たちの一人が、孝美に話の続きを促し、孝美もそれに応えて彼女に向き直り、話を続ける。
聞き耳を立ててみると、話の種はどうやら例の金曜日の顛末のようだった。
しかし解せないことに、女子たちの興味の中心はなぜか、怪我をした牧野さんではなく、将人のことが中心のようなのだ。
村上先生が入ってくると、その会話サロンみたいな人だかりは強制解散になった。
私は少し気になって、朝の会が終わってから一時間目の社会科が始まるまでの短い待機時間に、孝美に話しかけてみた。
「さっきの、何だったの?」
「さっき?――ああ」
と、孝美はもれなく私の意図を汲んで、周囲をさりげなく見回してから、声を潜めた。
「今朝、レイちゃんが将人くんと一緒に教室に入ってきたから、みんなびっくりしたみたい」
「一緒に?」
と、私も少し驚いてしまった。
でもまあ、わからないシチュエーションではない。
怪我をさせてしまった女子の介添え、ということだろう。そういえば、少年野球の朝練は雨で中止だったはずなのに、今日も家を早く出ていたのはそういうことか。将人もそのぐらいの気遣いができるようになったわけだ。
「へえ、やるじゃん」
ほんの少しだけ将人のことを見直した。
孝美は頷いて話を続けた。
「それでね。席に着く時も、金曜日はごめん、とか、大丈夫よ、とか親しげに話してたから。金曜日の昼休みのこと、詳しく知らない子たちが来て、二人に何があったの?って事情を訊かれてたの」
「へー」
なるほど。
保健委員として同行した孝美が、将人のファンクラブ会長でもあることは皆知っている。
だから、事実を確認しに来た――にしては何かがおかしい。
「でも、みんな将人の話してなかった? 牧野さんを心配してたんじゃないの?」
「あー、うん」
孝美は少し肩をすくめて苦笑した。
「その時の会話の感じが親しげだったから、カップル成立なんじゃないか、って」
「は?」
カップル? 将人と牧野さんが?
私はしばらくの間、マンガみたいに口をあんぐり開けて絶句してしまった。
孝美はぷっと吹き出して、「何その顔!」と朗らかに笑った。
「いや、だってさ」
私はようやく放心状態から抜け出して反駁した。
「将人だよ?」
「うん」
「牧野さんはクラス一の美人だよ?」
「そうかも」
「つり合い取れなくない?」
例えるなら、松本伊代がお笑い芸人と結婚するくらいのインパクトがある。
いやまあ、お笑い芸人にもいい人はいるだろうから、この例えは失礼か。
何にせよ、そんな一言二言の会話だけで、二人をカップル扱いするのは意味がわからない。
「そうかなあ」
しかし孝美は、この点については同意してくれなかった。
彼女は首をかしげて言った。
「みんな、うちのクラスのベストカップル、って言ってたけど」
「ええ?」
「だいいち、将人君ほんとにモテるんだよ? そうじゃなかったら、ファンクラブなんて成立しないんだから」
言われてみれば確かにそうか。
顔は野球部顔だけどヘチャムクレというほどではないし、最近背も伸びている。その及第点の男子に、パンサーズのエースピッチャーとか、最近身につけはじめた紳士的な行動といった付加価値がつけば、五年生から将人を知ったような同級生たちからはカッコよく見えるのかもしれない。
とはいえ、その心情を理解できたとしても、共感するには、私はあまりにも将人のことを知りすぎていた。
私は社会科の教科書を机の上に取り出しながらため息をついた。
「ま、人の噂も七十五日とかいうし、根も葉もないならすぐ消えるでしょ」
「うん。そうかもね」
「とか言って、油断してたら本当に将人、牧野さんにとられちゃうかもよ」
私はいつものように、その場を茶化すつもりで言った。
孝美はあまり表情を変えずに、首を横に振った。
「朔子ちゃん、それは絶対にないよ」
その確信めいた言葉には、なぜか妙な迫力があった。
小さな噂話に過ぎなかった将人と牧野さんの件は、その日の昼休みに入る頃には予想外の盛り上がりを見せていた。
「高尾くん、麗子ちゃんを救急車まで抱っこして運んだらしいよ」
「えー、何それ。王子様とお姫様じゃん」
「そういえば、今朝昇降口でさー、高尾くんが麗子さまに『俺の責任だから』って言っててさー」
「え、もしかして……」
午前中に雨は上がり、一転してからりと晴れ上がった空の下で、男子はほとんど校庭に出てしまっている。
教室に残っている女子たちのきゃいきゃい騒ぐ声は、教室の端っこで静かに本を読んでいる私にも聞こえてきた。
なんでだろう。口さがない女子たちの無責任な会話に過ぎないとわかっているのに、心がざわついて集中できない。
ふと気配を感じて視線を上げると、千葉さんがまた栗山君の椅子に座ってこちらを見ていた。
なんだこのデジャヴュ。
「あ、気づかれた」
千葉さんはぺろっと小さな舌を出して、ブリッ子めいた仕草で小首をかしげた。
「今日は何読んでんの?」
「ん」
と、金曜日の時と同じように、私は本の背表紙を見せた。
今日読んでいたのは『ざ・ちぇんじ!』という本で、これも赤間さんが貸してくれたコバルト文庫の一冊だった。平安時代の話なのにみんな現代語で喋ってるのが軽妙でいい。
「どんな話?」
「お姫様が男の格好をして活躍する話」
「へー! 男装の麗人、っていうんだっけ? 面白そうだね!」
「うん。面白いよ」
私はそこで、ぱたんと本を閉じた。
「何か用?」
「いやー、なんか不貞腐れた顔してるなと思ってさ」
千葉さんはにやりと歯を見せて笑った。チェシャ猫のような、というのはこういう顔のことだろうか。
それにしても、言うにこと欠いて不貞腐れてるとは失礼な。
「元からこんな顔よ」
「本は面白かったんだよね?」
「さっき答えたでしょ」
「じゃ、なんで不機嫌そうなわけ?」
こいつ、わかってて訊いてるな。
「雑音がうるさくて」
言いながら、私は教室の入り口付近の席でたむろって、先ほどからの噂話に花を咲かせているクラスメイトたちをちらりと見やった。
「ふうん、気になるんだ、噂のこと」
「……まさか、おたくが触れ回ってるんじゃないでしょうね?」
少し嫌な予想が脳裏をよぎって、私が問いただした。
千葉さんは「まっさかぁ」と首を横に振った。
「面白いことになったなあ、とは思ってるけどね」
「性悪……」
「でも、たかみーはたかみーで全然気にしてないみたいなんだよねー」
千葉さんは視線を私から外して天井の方を向き、ぼそっとそう言った。
そして急に立ち上がって、
「ホントあんたたち見てると面白いわ」
と私に耳打ちしてから、今にもスキップしそうな軽快な歩調で、教室から出て行ってしまった。
いったい何だったんだ。




