第8話 今も近くの山から
兼遠守夫の口から語られた凄惨な記憶。
話終えた守夫の部屋には、
ただ時計の針が刻む規則正しい音だけが響いていた。
三郷剛は、完全に言葉を失っていた。
無意識のうちに、
部屋の奥に佇む古い大黒柱の傷へ視線を向ける。
何世代にもわたり、兼遠の血が恐れてきた本物の野生の痕跡が、
そこには確かに刻まれていた。
かつて、この北海道の地を治めていたアイヌの伝承において、
ヒグマは「キムン・カムイ(山の神)」と呼ばれ、
畏怖の対象とされてきた。
彼らにとって、山から流れる川は単なる水源ではない。
神の国と人間の国を明確に分ける、不可侵の「境界線」だった。
お互いの領域を侵さず、敬意を払って生きること。
それこそが、この過酷な北の大地における「共存」の絶対条件だったはずなのだ。
しかし、人間は生きるために木を伐り、
境界線を超えて山の奥深くへと踏み込んでいった。
大作たちが直面したあの地獄は、
領域を侵された山の神が下した、容赦のない鉄槌だったのかもしれない。
剛は守夫の話を聞き、そんな自然への畏怖を強く感じていた。
今では開墾もすっかり終わり、人間と野生の距離はうまく保たれている。
もうあんな凄惨な事件が起きることはない。
誰もがそう信じ、剛自身もそう思っていた。
――だが、本当にそうだろうか。
ふと、外の風の音が止んだ。
夕闇がゆっくりと家を包み込んでいくなか、
剛の耳に、どこか遠くから奇妙な音が響いた。
気のせいか、と剛がさらに耳をすませた、その瞬間だった。
クチャ、……ボリ、グチャ、ベチャ。
静まり返った闇の奥から、湿った肉と骨を咀嚼するような、
ねっとりとした不気味な音が風に乗って聞こえてきた。
何かを貪り食う、生々しい、悍ましい音。
野生の熊は、飢えれば同族の肉さえも喰らうという。
あの川沿いで、五平を、一郎を喰らった時も、
化け物はこんな音を響かせていたのだろうか。
剛の心臓が、ドクリと跳ね上がる。
目の前にある大黒柱の古い傷が、まるで意志を持ったかのように、
じわりと黒さを増した気がした。
咀嚼音が、ふつりと止む。
血の気が引いていく静寂の中、次に聞こえてきたのは、別の音だった。
ズズっ……ズズっ……。
巨大な質量が、草木を、そして地面を擦り付けながら、
ゆっくりとこの家へ近づいてくる音。
一歩、また一歩と、確実に人間の領域へと足を踏み入れてくる、
あの化け物の足音だ。
人々はもう、あの恐怖を忘れてしまった。
山の神への敬意も、境界線の意味も、すべて過去の遺物として置いてきてしまった。
面白半分で撮影をしに行ったり、可哀想だからと餌を与えてみたり。
人間のそんな身勝手な行動が、再び化け物を引き寄せてしまう。
耳をすませば、ほら。
あの音が、今もあなたのすぐ近くの山から、聞こえてくる――。




