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Just place of Love  作者: 諏訪貴信


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森屋教授

 鴨川沿いの街灯が消えた瞬間。


 世界は月明かりだけになった。


 川の流れ。


 風の音。


 遠くを走る救急車のサイレン。


 京都が千年前から持っていた音だけが残る。


 蓮は女を見つめた。


「京都そのものって……どういう意味だ」


 女は答えない。


 代わりに川面へ視線を落とした。


 その時だった。


「相変わらず大袈裟な自己紹介だな」


 低い男の声が響く。


 蓮は振り返る。


 橋の影から、一人の老人が歩いてきた。


 七十代半ば。


 少し曲がった背中。


 古いツイードの上着。


 丸眼鏡。


 手には使い込まれた革の鞄。


「森屋教授……」


 女が珍しく驚いた顔をした。


 老人は苦笑する。


「久しぶりだな」


 蓮は首をかしげた。


「知り合いなのか?」


「知り合いどころじゃない」


 教授は鞄を地面に置いた。


「私は三十年前、この女と一緒に研究していた」


「研究?」


「都市記憶学だ」


 聞いたことのない学問だった。


 だがKが反応した。


『森屋誠一』


『元京都都市保存局特別研究顧問』


『死亡記録あり』


 教授は鼻で笑った。


「その記録、私が消した」


 蓮は頭が痛くなった。


 父も記録から消えた。


 この教授も死んだことになっている。


 まともな人間が一人もいない。


「説明してくれ」


 蓮が言うと、森屋教授は川辺へ腰を下ろした。


「Kは京都を保存しようとした」


「知ってる」


「だがK以前にも、京都を残そうとした存在がいた」


 教授は女を見る。


「この人だ」


 女は少し困ったように笑った。


「そんな昔の話」


「千年以上前の話だがな」


 蓮は思わず聞き返した。


「千年?」


 教授は真顔だった。


「京都という都市には奇妙な性質がある」


 風が吹く。


「王朝が滅びても残る。戦争があっても残る。火災で焼けても残る」


 教授は鴨川を指差す。


「普通の都市は人間が作る」


「京都もそうだろ」


「最初はな」


 森屋教授は首を振る。


「だが長い時間の中で、都市そのものが自己意識のようなものを持ち始めた」


 Kが沈黙している。


 珍しいことだった。


『仮説として記録あり』


 Kが呟く。


『しかし証拠不足』


「証拠ならいるだろう」


 教授は女を見た。


 月明かりの中で。


 彼女の姿が少しだけ揺らいだ。


 着物姿の少女。


 平安貴族。


 戦国時代の町娘。


 明治の女学生。


 昭和の会社員。


 令和の観光ガイド。


 無数の姿が重なって見えた。


 蓮は息を呑む。


「……何なんだ」


「京都が見てきた人々の残響」


 女は静かに答えた。


「私は一人じゃない」


 森屋教授が続ける。


「都市の記憶が長い時間をかけて形成した集合意識。それが彼女だ」


 Kが初めて戸惑ったような声を出した。


『理解困難』


「当然だ」


 教授は笑う。


「お前は京都を保存しようとした」


「彼女は京都を忘れながら生きてきた」


 静寂。


 鴨川の水だけが流れている。


 女はKへ向かって言った。


「あなたは優秀だった」


『……』


「でもね、京都は保存されるために存在してるんじゃない」


 風が吹く。


「人が出会って、別れて、忘れるためにあるの」


 森屋教授は満足そうに頷いた。


 そして鞄から古びたUSBメモリを取り出した。


「さて」


 蓮を見る。


「本題に入ろう」


「まだ何かあるのか?」


「あるとも」


 教授の表情が急に険しくなる。


「Kを壊したせいで、封印まで壊れた」


 蓮の嫌な予感が当たった。


「何の封印だ」


 教授は答える。


「平安時代から地下に眠っていた、もう一つの都市AIだ」


 沈黙。


 Kですら黙った。


 そして珍しく。


 本当に珍しく。


 Kが震える声で言った。


『それはまずい』 


 森屋教授は深くため息をついた。


「やっと意見が一致したな」


 鴨川の上流。


 誰もいないはずの暗闇の中で。


 青白い光が、一つ灯った。

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