二
集、手を放そうとしていたのは、どちらだったんだろう?
絡まるあなたの手は熱くて、わたしに否応なしに浸透していった。
苦しくて、喘いださきに求めたものは何だったんだろう。沼に羽を散らした鳥が求めたものは。水? 空気、新しい翼? それとも。
集、苦しい。わたしは――――
*** *** ***
「集、血が……」
身のすくむような音は、集が壁に打ちつけた拳がもたらしたものだった。集の感情の余波がわたしに流れ込み、息もつかせなくしてしまう。身体に絡まる腕、呼吸を貪る唇、吐息、すべての熱がわたしの頭の先から手足の爪にまで再現されるようだった。
こんなに、身体は濡れているのに。
ぎりり、となにか異様な音がする。握り込んだ集の手から、血が流れていた。
「や、やめて集! それ以上、やめてっ」
打ちつけて擦れた場所からではなく、掌に食い込んだ爪が、彼の皮膚を傷つけていた。
「――――触るな」
彼は一目も、わたしの側にいる男を見ずに言った。迸る流水が岩を砕き、その岩ごとこの身にぶつかってくるほどの、そんな破壊の理不尽さをわたしは集に思った。わたしを組み敷いたときの能面のように血の通わない表情は、そこにはなかった。ぎり、とまた耳を塞ぎたいような音がした。
「しゅ、集、やめてってば!」
「……そいつから離れろ」
ドォォン……! と、大音と同時に胃を手で握りつぶされたような気味の悪さを全身にもたらす圧倒的な光の明滅の質量が視界をおおった。稲光だ。
「しゅ……」
こんなときなのに、わたしは別の感情で泣きたくなった。苦しくて、助けてほしくて、手を伸ばすのは集しかいないのだと、追い込まれてなお、乞う。
「あんた、二階さんじゃないのか?」
「……海藤さん」
いささか呆然とした態で、わたしの両肩を掴んでいたひとは、その片方の手を放した。
集の顔は、もちろん、海藤さんは知っていた。最近まで集は、わたしの職場へ出入りしていたのだから。
「聞こえなかったのかよ、周から離れろって言ったんだよ」
集は、一度もわたしから目を離さない。それが余計に、集から滾る熱がどこへ向かっているのかをわたしに教えた。
「あんた、彼女に何したんだよ」
唐突に同僚は言った。集からわたしを隠すように、彼はわたしの前に立った。
「ちょっとおかしいんじゃないのか? 社会人なら、限度ってものがあるだろう。こんな、明らかに何かあったような格好で……明日だって仕事があるんだ、彼女の立場ってものも考え――――」
「あなたに関係ない!」
集は、そのときになって初めて、わたしのそばにいる男と目を合わせたと思った。集の目の色にたじろいだ様子の海藤さんを、集は鼻で笑った。
「……おかしいだって? そんなもん、あんたに言われることじゃねえな」
「酒井さんのこと、何だと思って……」
「海藤さん、やめてよっ。あなたには関係ない。……それに違う、集はわたしを探しに来てくれたんです。わたしが集に無断で出て行ったんですよ」
同僚は、嫌悪も露にわたしの顔を見た。
「何言ってるんだ? 酒井さん。同情なのかもしれないけど、そこまで庇うのは――」
「わたしがこうされたいって思っているのだから、いいでしょうっ!?」
同僚は絶句して、青ざめた。
ふつ……っと、その場から明かりが消えた。停電したのだと意識したときには、もう彼の姿はなかった。稲光が明滅するなかで、わたしは安堵に力が抜けて、その場にずるずると座った。
気づくと集が、わたしと同じ目の高さにいた。
集は、傷のないほうの手の親指で、ブラウスのボウタイをなぞった。それはリボンの形を確かめるような手つきだった。
「しゅう……?」
見つめた集の双眸に、わたしは、職場で集と出会ったときのことを思い出していた。
声を掛けたのは、わたしからだった。集と知り合ったのは、わたしの職場でだった。集はわたしの勤める会社へ必要備品を納入する業者の人間で、わたしはそれを受け取る部署に所属していた。初めて集を見たとき、なんだか不機嫌そうなひとだなと思った。素っ気ない態度であったし、このひとは対面の仕事をうまくやれているのだろうかと、少し心配になった。
集との関係が変わったのは、社外で開かれた親睦会がきっかけだった。限られた取引先や納入業者だけの集まりで、そんな雰囲気のなか、わたしは気安く集に話しかけた。わたしは職場で隔週に一度程度会う少しの言葉しかやり取りしない集との時間を、いつの間にか楽しみにしていたし、集が態度や言葉が素っ気なくても、フォローは率先してしてくれることをとてもよく知ることになっていたからだ。確認漏れはないかと、こちらから相手へ連絡する必要がないほどに、納品前後を問わず、都度、集は連絡をくれた。酒井さん、とわたしの名前を丁寧に呼んでくれることや、面立ちや体格、態度に見合わない思わぬ繊細な仕事の仕方に、わたしは、立ってはいけない長く張られた細い糸のうえでバランスをとっているような、そんな心の傾きを覚えた。
親睦会で集に話しかけたとき、いつもの不機嫌そうで素っ気ない態度のなかに、集の双眸は少し怯んだような色を見せた。そのさまを、子どもみたいで放っておけないとわたしはなぜか嬉しく思った。
口数の少ないひとだったけれど、わたしの仕事の対応が迅速だからやりやすいと言ってくれた。多分そんな言葉ではなかった。細かくて速い、助かっている、だとか、本当にそう思っているのか疑いたくなる言い方だった。
でも、わたしには彼がはにかんでいるように映った。なんだかこのひとをとても好きだと、面映くなった。その自分の感情にとても驚いて、近づいていた身体を、彼から一歩離した。そのとき、彼がわたしの腕を掴んだ。けれども大きく目を見開いたのは彼のほうだった。
――――悪い、とそう短く言った彼に、わたしは取り繕うことも覚えず、ただ呆気にとられていた。
それからが、じわじわと、それなのに後戻りを許さぬ歯車が動き出したのだと思う。
集は、社を訪れてわたしを呼ぶときは、ほとんど無言のうちにそれを行うようになった。たとえば、パーティションで区切られた、部署の奥にわたしの姿を見つけたとき。彼は少し首を伸ばして、わたしと目を合わせて目だけでわたしを呼んだ。わたしが気づいて笑顔を見せると、集はほんの一瞬目を伏せて、わたしを見据えた。
甘い痺れが言いようもなくわたしを包んだ。それが、恋人同士がする情緒的な触れ合いの危うい前触れではないと、どうして言えただろう。彼とわたしの指と指が絡まるようになるまで、時間は掛からなかった。
周、と集は丁寧にわたしの名を呼ぶ。
集、と返そうとする唇は、吐息ごと彼にのまれた。
苦しい、と訴えようと胸を叩くと、唇が離れぬまま宥めるように髪が梳かれる。
熱と、手のあまりの甘さに、細い糸の足場はぐらぐらになる。これ以上傾ぐことはできないと、悲鳴をあげる。そうして助けを求めたさきにあるのは、集の熱い指だった。絡まりあったまま、目を閉じてわたしたちは落ちてゆく。羽を広げることもせず。なのに目を開けると、落ちたのは別々の場所だった。わたしたちは、手を伸ばしあって――羽を散らしあって――、互いのもとへ進もうとする。
落ちた場所は、沼の対岸だった。もがけばもがくほど、足はとられ、羽は沼に沈んでゆく。
集、苦しい、たすけて――。
そう叫ぶ、そうもがく。
*** *** ***
ブラウスのボウタイから手を放した集に、集、とわたしはもう一度、集を呼んだ。
「――いつも綺麗だな」
「……リボンのこと?」
集はわたしを見て、顔をゆがめた。
「だっ……て、それは――。集は、好きでしょう……?」
集は、自嘲的に笑って立ち上がった。傷ついたはずの右手は、まだ握りこまれたままだった。
「……いつまでも俺のことに構ってんじゃねえよ」
「集――?」
「俺から逃げろよ、周」
聞こえてきたのは、信じられない言葉だった。震える唇で、わたしは集に問うた。
「逃げるって……、なあに」
「お前だって逃げたいと思ってるだろう。いい機会だから、離してやるよ」
「なあに、それ」
「関係のない奴にまで、俺を庇って、お前は本当に馬鹿なんじゃねえのか」
「……!」
はっとした表情は、ここがどれほど暗くとも、とっさに俯いても、集に読まれてしまっただろう。集の声は、とても苦々しいものだった。
「あいつを殴らせれば良かったんだよ……」
わたしはその言葉にカッとなって叫んだ。
「勝手なこと言わないで……っ! わたしが逃げたいってなによ! じゃあどうして集はここにいるのよ、わたしが、なにもわかってないと思ってるの!? 集がわたしから離れたいなら、言えばいいでしょう。あんなことしなくたって、わたしは集から離れたわよっ」
「ああでもしねえと、お前は離れねえだろっ! 俺はお前にああした後にも、腕に抱いて同じところで寝てるんだぞ、どうかしてると思えよ!」
わたしは集の言葉に呆然となった。手を放そうとしたのは集のほうだった。
「なんで言わねえんだ……。俺がおかしいって、言えよ。お前しかいないんだ、お前を俺から逃がしてやれるのは」
わたしは、まだ拳を握りこんだままの集の、服の端を掴んだ。
「……逃げたいんじゃない、助けてほしいの、わたしは」
「手を放せ……。“こうされたいって思っている”なんて、嘘でも言うな」
「集」
わたしは服から手を離して、座ったままの体勢で集に両手を伸ばした。
「わかってるって、言ったじゃない……。集が、わたしにすることを自分で理不尽だって思ってること、わたしは、わかってるの……」
集のわたしへの気持ちが、わたしの身にぶつかってわたしもろとも壊してしまうのを、集がどれほど悔しく思っているか、わたしはわかる。わたしたちは、二人とも、羽を散らしていたのだ。どうしようもなく、互いを求めあって。わたしが集に、その手を乞うたように、集もまた、進んでも進んでも足をとられるばかりの沼に、なお羽を沈めたのだ。
集は愕然とした様子で、壁に手をついた。ついに力がなくなったのか、彼の右手は開いて、そこから、なにかが落ちてころころとわたしの膝まで転がってきた。丸くて小さい、集の手によって散らされたわたしの着るブラウスのボタンだった。
「ボタン……」
「……お前の好きな服だろう」
稲光に、力なく言った集の表情が浮かんだ。
わたしは、もう一度集に手を伸ばした。
「……抱いて、くれる? 集が一緒じゃなきゃ、動けないわ」
「――――離してなんかやれねえよ」
抱き上げられて、集、と呼ぼうとしてわたしの声は、彼の唇に呑まれた。
唇が離れるほんのわずかな隙を縫って、集の名前を呼んだ。
「……しゅ、う。……ね、集。わ、たしは、どこへでも……行く、わ。集、と行けるなら、どこへでも――」
しゅるり、と彼はわたしのボウタイのリボンを解いて、肌蹴た首元に唇を寄せた。
「お前をこうできるなら……こうしていられるなら、行ってやるよ、周――――」
集、あなたが求めたのは、わたしが求めたのは、新しい翼だった?
水でも、空気でも、きっとちがう。沼の泥に沈んだ底で、ふたたび出会うことをこそかもしれない。沼の泥のなかで、散らした羽を絡めあい、縺れあわせながら、相手からもたらされる泥の吐瀉を唇で貪るのだ。
互いをみつめて沈んだ鳥は、沼の底できっともう一度出会う。
その道に、行方などなくとも。