第三章 聖女の涙
「お姉様に、呪いをかけられました」
王宮の医務室。
エミリアは、涙を流しながら訴えていた。
ベッドの上で震える彼女を、アレクシスは心配そうに見つめている。
「リリアーナが……?」
「はい……」
エミリアは胸元を押さえた。
「私が殿下と婚約したことを知ってから、お姉様はずっと私を憎んでいました」
「そんな……」
「昨日も、お姉様に会ったあとから身体が苦しくなって……」
アレクシスの表情が険しくなる。
「すぐに魔術師を呼べ」
「はい」
エミリアは俯きながら、口元だけをわずかに笑わせた。
これでいい。
リリアーナがどれだけ変わっても。
どれだけ美しくなっても。
どれだけ男たちに囲まれていても。
自分には「聖女」という絶対的な武器がある。
王太子の隣に立つのは、自分。
そうなるはずだった。
⸻
「……妙ですね」
宮廷魔術師がエミリアの身体を調べる。
「どうした?」
「呪いの痕跡がありません」
「そんなはずありません!」
エミリアが叫ぶ。
「でも、私は本当に苦しくて……!」
「体調不良では?」
「違います!」
エミリアは涙を流した。
「お姉様が私を殺そうとしているんです!」
その瞬間。
医務室の扉が開いた。
「それは困りましたね」
聞き覚えのある声。
エミリアの顔が凍る。
「リ、リリアーナ……?」
そこに立っていたのは、黒いドレスを纏ったリリアーナだった。
隣にはルシアン。
そしてその後ろにはレオン、カイル、ノア。
まるで彼女を守るように、四人の男が並んでいる。
「なぜここに……」
「私が呼ばれたと聞きまして」
リリアーナは微笑んだ。
「妹が私に呪いをかけられたと仰っているそうですわね?」
「……違うの!」
エミリアが慌てて首を振る。
「私はただ、本当のことを――」
「では」
リリアーナは魔術師を見る。
「調べていただけます?」
「すでに確認しました。呪いはありません」
静寂。
エミリアの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「おかしいですね」
リリアーナは首を傾げた。
「私が呪いをかけたのなら、どうして痕跡が一つもないのでしょう?」
「……」
誰も答えない。
アレクシスだけが、リリアーナを見つめていた。
彼女は変わった。
以前なら。
こんな場面では泣いていた。
必死に誤解を解こうとしていた。
自分に助けを求めていた。
なのに今は。
冷静に。
美しく。
誰より堂々と立っている。
「殿下」
リリアーナがアレクシスを見る。
「私が妹を虐めたという証拠はありますか?」
「……」
「私が呪いをかけたという証拠は?」
「……ない」
「でしたら」
リリアーナは微笑んだ。
「これ以上、私を犯人扱いするのはおやめくださいませ」
アレクシスは言葉を失った。
「リリアーナ……」
久しぶりに呼んだ名前。
けれど彼女は。
「その呼び方は、おやめください」
冷たく言った。
「私たちはもう婚約者ではありませんもの」
胸に刃を刺されたようだった。
⸻
その日の夜。
アレクシスは一人、執務室にいた。
机の上には、三ヶ月前に交わした婚約破棄の書類。
何度も読み返す。
そこには。
リリアーナがエミリアを虐げたという証言が、いくつも書かれていた。
だが。
改めて調べてみると。
妙なことばかりだった。
証言者のほとんどがエミリアの侍女。
証拠として提出された手紙も、筆跡鑑定をすれば偽物。
そして今日。
呪いすら存在しなかった。
「……まさか」
アレクシスの手が震える。
「エミリアが……嘘を?」
信じたくなかった。
聖女だ。
異世界から召喚された、特別な存在。
彼女が嘘をつくはずがない。
そう思っていた。
だが。
記憶を辿る。
リリアーナが泣いていた。
何度も否定していた。
「私はやっていません」と。
それでも自分は――
彼女を信じなかった。
「……僕は」
アレクシスは顔を覆った。
「何をしていたんだ……」
その頃。
別の屋敷では。
リリアーナが紅茶を飲んでいた。
「今日は大変でしたね」
ノアが笑う。
「そう?」
「殿下、とても苦しそうでしたよ」
「そうでしょうね」
リリアーナは紅茶を一口飲む。
「でも、私には関係ありませんわ」
レオンが静かに尋ねる。
「本当に?」
「ええ」
少しの沈黙。
リリアーナは窓の外を見た。
「……昔の私なら、殿下に信じてほしかったでしょうね」
「……」
「でも今は違います」
月明かりが彼女の横顔を照らす。
「私を信じてくれなかった人に、今さら信じてほしいとは思いません」
ルシアンが彼女を見る。
「では、彼が謝ってきたら?」
リリアーナは少し考えた。
そして。
「許すことはできます」
「……」
「でも」
彼女は振り返った。
「もう一度、愛することはできませんわ」
その言葉を。
扉の外で聞いていた男がいた。
アレクシスだった。
彼は何も言えなかった。
ただ。
握りしめた拳から、血が滲んでいた。
⸻
翌日。
王宮では、重大な発表が行われた。
聖女エミリアに関する調査を開始する。
そして。
リリアーナに対する一連の告発についても、再調査する。
その知らせを聞いたリリアーナは、ただ一言。
「ようやく、始まりましたのね」
と呟いた。
しかし。
彼女はまだ知らなかった。
エミリアが最後の切り札を持っていることを。
そしてその切り札が――
「本物の聖女は誰なのか」
という、国そのものを揺るがす秘密だったことを。




