第9話 届かない手紙と、消えた妹
午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、丁寧にノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代後半の男性だった。グレーのスーツに、少しくたびれたネクタイ。疲れの浮かんだ顔で、室内を一瞥してから玲の前で頭を下げた。
「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。森下健太と申します」
「坐って。立ち話はしない」
健太は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。手元の封筒を、両手で押さえている。
玲は缶を机に置いた。
「行方不明の大人を探す仕事は、だいたい『本人が消えたがってる』ケースが多い。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
健太は一度、喉を鳴らしてから口を開いた。
「妹が、二週間前から行方不明なんです。名前は森下優子、三十二歳。フリーランスで在宅の仕事をしていて、普段から連絡は少なめだったんですが……突然、まったく繋がらなくなりました。警察は『成人なので、事件性がない限り静観』との対応です」
「最後に連絡が取れたのは?」
「私に、短い手紙が届いたんです。『もう会えないかもしれない。これまでありがとう』とだけ。筆跡は妹のものに似ていたんですが、どうにも引っ掛かって」
玲は健太の顔をじっと見た。丁寧な話し方なのに、目が時折泳ぐ。本音を全部出していないような、薄い膜が張った目つきだった。
「報酬は?」
健太は封筒を机に置いた。それなりの厚みがある。
「これで足りなければ、追加します」
玲は短く息を吐いた。
「……話を続けて。妹の部屋の住所と、普段の交友関係。わかる範囲で全部」
調査は翌日から始まった。
玲はまず、優子の部屋を訪れた。ワンルームのアパートは、生活感が残ったままだった。食器がシンクに置かれ、デスクの上には仕事用のノートPCが閉じられている。衣類は整理され、逃げるような慌てた様子はない。
近隣への聞き取りでは、「ここ最近、特に変わった様子はなかった」という答えがほとんどだった。ただし、一人の住民が「夜中に電話で誰かと話している声がした。少し泣いているみたいだった」と証言した。
次に、優子の仕事関係者を当たる。クライアントの一人が、こう漏らした。
「森下さん、締め切り前なのに連絡が途絶えて困ってます。ただ、失踪する前の週に『家族のことで少し考えごとがある』とは言っていました」
玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。壁の古い地図を眺めながら、健太から預かった手紙を改めて確認する。筆跡は確かに優子のものに近い。だが、線の強弱が、ところどころ不自然に揃っている。
「……本人が書いたにしては、整いすぎてる」
三日目。
玲は健太の周辺も調べ始めた。兄妹の関係は、表向きは円満に見えた。しかし、古い知人から拾った話は、少し違っていた。
「健太さんは、昔から妹に厳しいところがありました。優子さんが小さい頃の失敗を、今でも時々持ち出すような」
さらに、失踪直前に兄妹間で金銭のやり取りがあった痕跡が見つかる。優子が健太に、まとまった額を渡していた記録だ。理由は「昔の借りを返した」とのことだったが、詳細は不明。
玲は健太を再度事務所に呼び、淡々と事実をぶつけた。
「手紙の筆跡、完全に本人のものじゃない。誰かが下書きを基に整えた可能性が高い。それと、妹さんからあなたに渡ったお金の件。何の借り?」
健太の表情が、わずかに強張った。すぐに取り繕うが、玲は見逃さなかった。
「……子供の頃の話です。私が原因で、妹に怪我をさせたことがあって。示談金みたいなものを、ずっと負い目に感じていたみたいで」
玲は缶を指で回した。
「負い目を、金で清算しようとした。妹はそれを受け入れた。でも、本当は受け入れきれていなかった。そういうこと?」
健太は答えなかった。
五日目。
玲は優子の足取りを、都内の端の方まで追い続けた。友人の一人が「優子が『しばらく一人になりたい』と連絡してきた」と証言し、そこから居場所が繋がった。
見つかったのは、郊外の小さなアパートだった。優子はそこに、最低限の荷物で身を寄せていた。
玲が訪ねると、優子は最初、門前払いをしようとした。しかし、玲が「あなたの兄から依頼を受けている。無理に帰せとは言わない」と伝えると、渋々部屋に入れた。
優子は兄との関係を、静かに話した。
「子供の頃の事故は、本当に事故だったのかもしれない。でも、兄はそれを『私が悪い』みたいに扱い続けた。大人になっても、何かあるたびにその話が出る。金を渡したのも、もう終わりにしたかったから。でも、終わりにできなかった。だから、自分から消えました」
手紙については、優子自身が下書きを書いていたものを、別の人物——兄に近い知人——が「決定的な形」に整めて送りつけた可能性が高いことが、後の調査で判明する。優子を追い詰める意図があったわけではなかったが、結果としてそう機能してしまった。
玲は優子に短く告げた。
「居場所は特定した。兄に伝える内容は、あなたが決めていい。会うも会わないも、強制はしない」
優子は俯いたまま、小さく頷いた。
翌日。
玲は健太に報告した。事務所の机を挟んで、事実だけを並べる。
「妹さんは生きている。自ら距離を置いただけ。手紙は、本人の下書きを基に誰かが整えたもの。あなたが昔の話を持ち出し続ける限り、彼女は戻らない可能性が高い」
健太は拳を膝の上で握りしめた。何か言いかけたが、玲は手で制した。
「家族の話に、私は付き合わない。解決したのは『行方』だけよ。後は自分で何とかして」
健太は長い時間、黙っていた。やがて、静かに頭を下げて事務所を出て行った。
ドアが閉まった後、室内に沈黙が戻る。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。
「血の繋がった人間の方が、よっぽど面倒くさい……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな人間臭い Troubles を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




