第8話 偽りの呪いと、本物の欲
午後の光が、埃を含んで室内に差し込んでいた。
雑居ビル三階の事務所。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面が微かに光っている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に座り、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、勢いよく開いた。
「失礼します!」
入ってきたのは、二十代半ばの女性だった。髪をラフにまとめ、エプロンを外し忘れたような ethusiastic な雰囲気をまとっている。目元に強い焦りがあり、話し方が少し速かった。
「黒崎玲さんですよね? 遠藤麻里です。お願いがあって来ました」
「坐って。立ち話はしない。それと、ドアはもう少し静かに開けなさい」
麻里は「すみません」と頭を下げ、向かいの椅子に腰を下ろした。手元のバッグを強く握っている。
玲は缶を机に置いた。
「で、何の用? 呪いとか除霊とかなら、他を当たって。うちはそういうの扱わない」
麻里は身を乗り出した。
「でも、本当に呪われてるみたいなんです。私の雑貨店に置いてある古い人形が。それを置いてから客が減って、変な噂まで立ち始めて……このままじゃ店が潰れます」
玲は眉を片方だけ上げた。
「人形が原因だと? 客が減った理由を、人形のせいにしてるだけじゃないの?」
「違います! 実際に、人形を見た人に小さな事故が続いたんです。転んだり、財布を落としたり……噂が広がって、誰も寄りつかなくなって」
玲は短く息を吐いた。
「……報酬は払えるの?」
麻里はバッグから封筒を取り出し、机に置いた。厚みはそれほどない。
「これしか今は用意できなくて。足りなかったら分割でも」
玲は封筒を見下ろし、やがて小さく肩をすくめた。
「話だけは聞く。ただし、動くかどうかは別。期待はしないで」
翌日。
玲は麻里の雑貨店を訪れた。住宅街の角にある小さな店で、窓に「臨時休業」の紙が貼ってある。店内は雑貨がびっしりと並び、奥の棚にその人形が置かれていた。
人形は確かに古かった。木製で、目の部分がガラス玉になっており、光の加減で視線を感じさせる作りをしている。服は色あせ、縫い目がほつれている。
玲は人形を手に取り、裏を返し、関節を確認した。特別な仕掛けはない。ただの古い工芸品だ。
「これ、どこで手に入れた?」
「蚤の市です。安かったので。置いた当初は『味があっていい』って言われてたんですけど……」
玲は店の周囲を歩き、近隣の話を聞き始めた。数件回ったところで、別の雑貨店の存在が浮上する。麻里の店から歩いて二分の場所にある、少し大きな店だ。
そこの店主は五十代の女性で、笑顔を浮かべながらも、目が笑っていなかった。
「遠藤さんのところ? ああ、最近噂になってますね。『呪われた人形』だとか。私は信じませんけど、客が不安がるのは仕方ないですよ」
玲は淡々と聞き、事務所に戻った。缶コーヒーを開け、壁の地図を眺めながら情報を整理する。
呪いの痕跡は、どこにもない。あるのは、人間の痕跡だけだ。
三日かけて、玲は事実を積み重ねた。
噂の発信源は、ほぼライバル店主に集中していた。小さなSNSの書き込み、地域の掲示板への投稿、客への「忠告」。すべてが、麻里の店から客を遠ざける方向に働いていた。
さらに、店の前で起きた「小さな事故」のいくつかは、意図的に演出された可能性が高かった。転倒した客の近くに、ライバル店の人間がいた記録が残っている。
一方で、麻里自身も問題だった。不安から客に「この人形、ちょっと怖いんですよね」と indiscernible に話し、結果として自分で噂を増幅させていた。
玲は関係者を一人ずつ突き、最後にライバル店主を呼び出した。場所は、人通りの少ない公園の端だ。
「あなたが噂を流した。妨害工作もした。証拠はある。今すぐ止めなさい。表に出すのは、あなたが決めて」
店主は最初否定したが、玲が淡々と事実を並べると、次第に黙り込んだ。最後に、しぶしぶ頷く。
「……わかりました。もうしません」
玲はそれ以上、追及しなかった。
その日の夕方。
玲は麻里を事務所に呼んだ。麻里は人形を袋に入れて持ってきていた。
玲は机の向こうから、冷静に告げた。
「呪いは存在しない。人形はただの古い人形よ。客が減ったのは、ライバル店の噂と妨害、そしてあなた自身が不安を客に移したから。人間の欲と勘違いが、店を蝕んでいただけ」
麻里は最初、強く首を横に振った。
「でも、実際に事故が……」
「偶然と、演出が混ざってた。あなたが『呪い』を信じた瞬間から、全部がそう見えただけ」
玲の声は冷たかったが、怒鳴りはしなかった。事実を、一つずつ置いていくだけだ。
麻里はしばらく俯いていた。やがて、袋の中の人形を見つめて、小さな声で言った。
「……自分で、処分します」
玲は短く頷いた。
「それがいい。人間の欲の方が、よっぽど執念深いから」
ドアが閉まった後、事務所に沈黙が戻る。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。
「呪いより人間の方が面倒くさい……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな人間臭い Troubles を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




