第7話 古い写真と、残された声
午後の光が、窓ガラスを通って室内に落ちていた。
雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、ほとんど音を立てずにノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、七十代前半の老人だった。白髪を丁寧に整え、古いが清潔なコートを着ている。背筋はまだまっすぐで、歩く速度はゆっくりだが、杖はついていない。室内を一瞥してから、玲の前で小さく頭を下げた。
「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。高階誠一郎と申します」
「坐ってください。立ち話はしない主義なので」
高階は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。両手を膝の上で重ね、姿勢を崩さない。
玲は缶を机に置いた。
「老人の依頼は時間がかかるんだよね。話が長くなるし、感情的になりやすい。それでもいいの?」
高階は穏やかに頷いた。声は低く、落ち着いている。
「構いません。三年前に妻を亡くしましてね。病死です。それ以来、家で妻の声が聞こえるのです。録音してもほとんど残らない。家族や医者には『気のせい』と言われました。でも、私には本当に聞こえる。彼女が話しているように。可能なら、その出所を調べていただきたい。……できれば、もう一度だけ、ちゃんと別れを告げたい」
玲は高階の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えない。ただ、長い年月をかけて磨き上げたような、静かな執着が目の奥に沈んでいた。
「除霊はしない。原因を探るだけ。報酬は先に払ってもらう。それでいい?」
高階は静かに封筒を取り出し、机に置いた。
「はい。お願いいたします」
翌日の午後。
玲は高階の自宅を訪れた。都心から少し離れた住宅街にある、古い一軒家だった。庭の木は丁寧に手入れされ、玄関の靴はそろえてある。室内に入ると、時間の止まったような空気が流れていた。
居間の棚には、写真立てがいくつか並んでいる。若かった頃の二人、旅行先での笑顔、そして妻が一人で窓辺に立つ写真。妻の遺品は、すべて埃を払われて整然と残されていた。特に目を引いたのは、小さなオルゴールと、古い写真立ての裏に貼られた手書きのメモだった。
「夜になると、よく聞こえます。特に、この部屋で」
高階の声は淡々としていた。玲は部屋の構造を確認し、壁を叩き、窓の隙間を調べる。論理的に説明できる可能性を、まず潰していく。
その夜、玲は再び家を訪れた。高階は別室に下がり、玲は居間の椅子に坐って待機する。安い缶コーヒーを両手で包み、時計を見る。
一時を回った頃、空気がわずかに変わった。
最初は、風のような音だった。次に、女性の声。低く、優しく、遠くから届くような声。
「……誠一郎さん」
高階の名前を、確か呼んだ。短い言葉が、いくつか続く。昔の会話の断片のようにも、名前を繰り返すだけのようにも聞こえる。玲が録音機を近づけると、声はすうっと遠ざかった。
玲は表情を変えず、部屋を見渡した。写真立てのガラスが、微かに曇っている。オルゴールの蓋に、指先で触れると、冷たい。
調査は三日かけて続けられた。
玲は妻の日記と手紙を読んだ。丁寧な字で、日常が綴られている。亡くなる数ヶ月前から、「夜中に誰かの声がする」「鏡に映る自分が、少し違って見える」といった記述が増えていた。妻は密かに、古い鏡の破片を集めていたらしい。それが、現在玲の事務所の引き出しにしまってある鏡と、同源のものである可能性が高いことがわかった。
玲は事務所に戻り、引き出しを開けた。黒い布に包まれた鏡を取り出し、布の上からそっと触れる。冷たい感触が、指先に残る。
「……また、繋がるか」
小さく舌打ちをして、布をきつく結び直した。
四日目の夜。
玲は高階の家で、最後の確認をした。鏡の破片を家の中から慎重に回収し、居間の「場」を整える。声は、玲が破片を布に包んだ瞬間から、徐々に小さくなっていった。
最後に残ったのは、ごく短い呟きだった。
「……ありがとう」
高階の名前ではなかった。誰に向けたのかも、わからない。ただ、優しくて、少しだけ名残惜しそうな声だった。
声が完全に消えた後、高階は一人で居間に坐った。写真立てを手に取り、静かに口を開く。玲は廊下から、それを遠巻きに見ていた。内容までは聞こえない。ただ、長い時間が経って、高階がゆっくりと頭を下げたのがわかった。
事務所に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。
引き出しを開け、回収した破片を本命の鏡と一緒に布で包み直す。きつく、二重に結ぶ。指先がまだ少し冷たい。
「未練は、残す方も、残される方も、面倒くさいものだよ」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな声を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




