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『裏探偵・黒崎玲の事件簿』  作者: 蒼狐


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第6話 スキャンダルと、甘い嘘

午後の光が、窓から斜めに落ちていた。


雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面が微かに光っている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。


黒崎玲は椅子に座り、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。


ドアが、丁寧にノックされた。


「どうぞ」


入ってきたのは、二十代後半の女性だった。シンプルな黒いスーツに、髪を後ろでまとめている。化粧は控えめだが、目元に強い疲れがにじんでいた。室内を一瞥してから、玲の前で姿勢を正す。


「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。宮部沙織と申します。マネージャーをしております」


「坐って。立ち話はしない」


沙織は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。ハンドバッグを膝の上に置き、指先でストラップを握る。


玲は缶を机に置いた。


「芸能関係の依頼は面倒くさいんだよね。話が大きくなりやすいし、後で揉める率が高い。それでもいいの?」


沙織は一度、深く息を吸った。


「構いません。担当している女優が、既婚の男性とスキャンダルになりかけています。このままでは週刊誌にすっぱ抜かれかねない。表に出る前に真相を確かめて、可能ならもみ消してほしい。ただ……本当に愛人関係なのか、それとも何か別の事情があるのかも、知りたいんです」


玲は沙織の顔をじっと見た。嘘を言っているようには見えない。ただ、どこかで「真実」と「都合のいい結果」を両方欲しがっている目をしていた。


「報酬は?」


沙織はバッグから封筒を取り出し、机に置いた。厚みがある。


「着手金です。成功報酬は別途お支払いします」


玲は短く息を吐いた。


「……金の匂いはする。話を続けて」



調査は翌日から始まった。


対象の女優は、二十代前半の若手。清楚なイメージで売り出し中だ。相手の男は、四十代の実業家。表向きは誠実な経営者として知られているが、裏ではさまざまな「便宜」を図ることで有名だった。


玲は二人の行動を地道に追い始めた。高級ホテルの出入り、隠れ家的なレストランでの同席。目撃情報は確かに存在する。表面だけを見れば、紛れもない密会だ。


しかし、玲が拾った断片は、少しずつずれを見せ始めた。


ある夜のレストランで、二人の会話を遠巻きに観察したときのことだ。男が一方的に話し、女優はほとんど頷くだけだった。笑顔は作っているが、目が笑っていない。手元のグラスを握る指に、力が入っている。


別の日、男の元同僚から聞いた話も引っ掛かった。


「あの人は、人の弱みを握るのが上手いんですよ。特に若い子には」


玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。壁の古い地図を眺めながら、情報を整理する。恋愛にしては、熱が足りない。取引にしては、女優の態度が従属的すぎる。



五日目。


玲は女優本人に接触した。表向きは「雑誌のインタビュー」を装い、撮影の合間を縫って短時間だけ話を聞く。女優は笑顔を崩さなかったが、特定の話題になった瞬間、指先が微かに震えた。


沙織にも、途中経過を報告した。沙織は「もみ消しを優先してほしい」と繰り返す。玲はそれを聞き流しながら、別の方向から事実を掘り続けた。


そして七日目の夜。


玲は男の事務所近くで、彼を呼び止めた。表通りから少し入った、人通りの少ない場所だ。男は最初、余裕のある笑みを浮かべていた。


「探偵さんか。何の用かな」


玲は余計な前置きをしなかった。


「彼女があなたに握られているもの。何?」


男の笑みが、一瞬だけ硬くなる。すぐに取り繕うが、玲は見逃さなかった。


「わからないな。何の話だ」


「過去の示談記録だよ。軽くて、表には出ていないもの。あなたはそれをネタに、彼女を動かしていた。仕事の紹介をちらつかせて、金も受け取っていた。恋愛に見せかけた、ただのゆさぶり」


男の顔から、余裕が消えた。玲はそれ以上、声を荒らげることはしなかった。淡々と、集めた証拠の存在を示しただけだ。写真、送金記録、元関係者の証言。すべてが、男の行動を裏付けていた。


「表に出すかどうかは、あなた次第。ただし、今すぐ彼女から手を引け。二度と接触するな。そうすれば、私も黙る」


男はしばらく沈黙していた。やがて、低く吐き出すように言った。


「……わかった」


玲はそれ以上、彼を追わなかった。背を向けて歩き出す。雨が、ぱらつき始めていた。



その夜の終わり近く。


玲は沙織と女優を、事務所に呼んだ。二人は並んで坐り、玲の言葉を待っている。室内はいつもの薄暗さで、缶コーヒーの香りだけが漂っていた。


玲はまず、事実を整理して伝えた。


「愛人関係じゃない。彼女はあなたの弱みを握られていただけ。過去の示談をネタに、動かされていた。男はそれを利用して、金と影響力を得ようとしていた」


女優の顔が、青ざめる。沙織は唇を固く結んだ。


玲は続けた。声は冷たいまま、丁寧に言葉を選ぶ。


「男には、もう接触しないと約束させた。証拠はある。彼が動いたら、こちらも動く。表沙汰にはしない。ただし、あなたたちも、これ以上隠し立てをするな」


女優が、小さな声で口を開いた。


「……マネージャーには、言えなかった。言ったら、仕事を失うと思ったから」


沙織は目を伏せた。しばらくして、ゆっくりと女優の肩に手を置く。強くはないが、離れない程度の力で。


「……馬鹿ね。言ってくれればよかった」


玲は二人のやり取りを、机の向こうから見ていた。感情的な慰めはしない。ただ、事実を置いただけだ。


「もみ消しは、これで終わり。報酬は約束通りでいい。もう、私の仕事は終わったから」


沙織は何度も頭を下げた。女優も、続いて礼をした。二人が事務所を出ていく後ろ姿は、少しだけ前より近く見えた。



ドアが閉まった後、事務所に沈黙が戻る。


玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。


机の引き出しを開け、端にしまってある青い折り紙をちらりと見る。すぐに視線を戻し、短く呟いた。


「甘い話ほど、裏がある……」


窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。


玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。


次に来る依頼が、またどんな人間臭い Troubles を運んでくるのかは、わからない。

それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。

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