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『裏探偵・黒崎玲の事件簿』  作者: 蒼狐


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第5話 小さな依頼人と、帰らないパパ

午後の光が、埃を含んで斜めに差し込んでいた。


雑居ビルの三階。錆びた手すりを上がった先にある、薄暗い一室。古びた木製の机、それに合わせた椅子。壁には古い地図が貼られ、隅の観葉植物は葉のほとんどを失い、土だけが乾いて残っている。机の上には、開けたばかりの安い缶コーヒー。金属の表面に、薄い結露がついていた。


黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、窓の外を見るともなく見ていた。


ドアが、ほとんど音を立てずに開いた。


玲の視線が、ゆっくりとそちらへ向く。入ってきたのは、大人ではなかった。


九歳くらいの男の子だった。大きめのランドセルを背負い、少しすり減ったスニーカーを履いている。黒髪は無造作に伸び、頬は薄いのに目だけがはっきりとしていた。玄関で一瞬立ち止まり、室内をきょろきょろと見渡してから、玲の方を見て口を開いた。


「……探偵さん?」


玲は缶を机に置いた。金属音が、静かな部屋に小さく響く。


「ここは子供が来るところじゃない。迷子なら、下の交番に行きなさい」


男の子は動かなかった。ランドセルの肩紐を両手がしっかりと握っている。年齢の割に、声は意外と落ち着いていた。


「迷子じゃないです。依頼しに来ました」


玲は眉をひそめた。毒舌が喉まで出かかるのを、一瞬だけ飲み込む。相手が子供だとわかっているのに、いつもの癖が先に出そうになる。


「依頼? 子供が? お金はどうするつもり」


男の子はポケットに手を入れ、しわくちゃの千円札を数枚、机の端に置いた。お年玉の残りらしく、折り目が深くついている。


「これしかないです。足りなかったら、また持ってきます」


玲は札を見下ろしたまま、しばらく沈黙した。缶コーヒーの香りが、微かに鼻をくすぐる。枯れた植物の葉が、空調の風でかすかに揺れた。


「……名前」


「佐藤陽太です」


「坐りなさい。ただし、話を聞くだけよ。動くかどうかは別」


陽太は小さく頷き、向かいの椅子に慎重に腰を下ろした。足が床にしっかりつかず、少し揺れている。


玲は手帳を開き、ペンを取った。いつものように冷たい声で尋ねる。


「で、何を探してほしいの」


陽太は唇を一度、噛んだ。それから、真っ直ぐな目で玲を見た。


「パパが、帰ってこないんです」



陽太の話は、子供にしては整理されていた。


父親は三日前の朝、いつものように家を出た。夕方になっても帰らず、夜になっても連絡がない。携帯電話は繋がらない。母親は別の場所に住んでいて、電話で「もうパパは来ないの。諦めなさい」としか言わなかった。陽太はそれが嘘だと思った。父親が自分を置いて消えるはずがない、と。


玲は淡々とメモを取りながら、時折質問を挟んだ。


「お母さんは、何て言ってた?」


「『パパは仕事でいなくなった』って。でも、嘘だと思います。パパは私に『絶対に帰ってくる』って言ってたから」


「学校は?」


「休んでないです。今日は早く終わったから、来ました」


玲は缶を取り上げ、一口飲んだ。苦味が舌に残る。子供の依頼など、本来なら即刻追い返す案件だ。手間がかかるうえに、報酬にもならない。それに——子供の目を、真正面から見続けるのが、少しだけ煩わしかった。


それでも玲は、陽太をすぐに帰すことはしなかった。


「住所と、お父さんの名前を教えて。写真があれば、それも」


陽太はランドセルから、折りたたんだ写真を取り出した。父親と並んで笑っている、少し古いスナップだった。父親は三十代半ばくらいで、目元が陽太に似ている。



調査は、翌日から始まった。


玲はまず、陽太が暮らすアパートを外から確認した。古いが、きれいに掃除された一室。ポストにはチラシが溜まり始めている。近隣に話を聞くと、父親は最近まで「息子と二人で頑張っている」と明るく話していたという。


次に、父親の仕事先を辿った。リストラ後、日払いの現場を転々としていたようだ。最後に姿を見せたのは、建設現場の飯場だった。そこで働いていた男が、渋々口を開いた。


「佐藤さんなら、先週で辞めたよ。『息子に会うための金を作る』とか言ってた。危うい仕事紹介する奴がいてな……」


玲はそれ以上深く追及しなかった。必要な情報だけを拾い、事務所に戻る。


陽太は、その日の夕方にも顔を出した。ドアを小さく開け、覗くようにして言った。


「何か、わかりましたか」


玲は机から顔を上げず、短く答えた。


「まだ。毎日来なくてもいい。進展があったら連絡する」


「携帯、持ってないです」


「……じゃあ、三日に一度だけ来なさい。それ以上は邪魔」


陽太は「はい」と元気よく答え、帰っていった。ドアが閉まる音の後、事務所に残る静けさが、いつものそれとは少し違って感じられた。



四日目。


玲は父親の足取りを、都内の端の方まで追い続けた。安アパートが建ち並ぶ一角。そこで、父親が短期間だけ部屋を借りていたことがわかった。部屋の中には、ほとんど荷物が残っていない。ただ、テーブルの上に一通の手紙と、小さな紙袋が置かれていた。


手紙は陽太宛てだった。字は少し乱れている。


『陽太へ。パパはもう、君に迷惑をかけられない。ちゃんと生きろ。お母さんと一緒に』


紙袋の中には、新品の消しゴムと、安いボールペン。陽太が欲しがっていたらしい文房具だった。


玲は手紙を持ったまま、しばらく窓の外を見ていた。午後の光が、また埃を照らしている。


父親は、息子にこれ以上の負担をかけまいとして、自ら身を引こうとしていた。だが、その過程で軽い借金のトラブルに巻き込まれ、一時的に身動きが取れなくなっていた。居場所は、もうほぼ特定できていた。


玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。苦くて薄い液体を飲むたびに、陽太の目がちらついた。



五日目の午後。


陽太がまた訪れたとき、玲は机の上に写真とメモを並べていた。


「坐りなさい」


陽太は静かに坐った。今日は足の揺れる幅が、少し小さい。


玲はいつものように冷たい声で話し始めた。ただし、言葉は慎重に選んでいた。


「お父さんは、生きてる。消えたわけじゃない。ただ、今は会えない事情がある」


陽太の目が大きくなった。唇が、かすかに動く。


「会える……?」


「いつになるかはわからない。約束もできない。でも、少なくとも『もう来ない』は嘘よ」


玲は、父親が残した手紙の内容を、年齢に合わせてかみ砕いて伝えた。全部は話さない。暗すぎる部分は削る。陽太が納得するかどうかは、子供次第だ。


陽太はしばらく俯いていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。目が少し赤い。


「……ありがとう、ございます」


玲は缶を机に置いた。


「礼はいらない。それと、これ」


机の端に置いてあった、しわくちゃの千円札を、陽太のランドセルのポケットに押し戻す。


「子供から金は取らない。次から、安易に探偵なんかを頼るんじゃない」


陽太は札を握りしめ、何度も頷いた。出口まで歩いていき、ドアに手をかけたところで、振り返った。


「また、来てもいいですか。報告、聞きに」


玲は一瞬だけ沈黙した。


「……勝手にしなさい。ただし、邪魔になったら追い返すから」


陽太は小さく笑った。子供らしい、歯の欠けた笑顔だった。ドアが閉まり、足音が階段を下りていく。



事務所に、再び沈黙が戻った。


玲は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。安い缶コーヒーの残りを、ゆっくりと飲み干す。苦味が、喉の奥に残る。


「子供の依頼は、苦手だ……」


誰に言うでもなく、呟く。


机の上に、小さな折り紙が残っていた。陽太が、いつの間にか置いていったものらしい。不器用に折られた、青い紙の飛行機。


玲はそれを指先でつまみ上げ、すぐにゴミ箱へ捨てようとした。動作が、途中で止まる。


しばらく迷った後、玲は引き出しの端を開け、折り紙をそっとしまった。鏡の布包みの隣に、違和感なく収まる。


窓の外で、風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。


玲は新しい缶コーヒーを開け、また一口飲んだ。


いつもの味だ。

ただ、今日の静けさだけが、ほんの少し、いつもと違っていた。

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