第4話 消えたデータと、沈黙の報酬
雨の止んだ夜の空気が、まだ肌に残っている頃だった。
雑居ビル三階の事務所。
薄暗い室内に、安い缶コーヒーの香りが漂っている。古びた木製の机、壁の古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。すべてはいつものままだ。
玲は椅子に深く座り、缶を片手に書類の切れ端を眺めていた。
丁寧なノックがした。
「どうぞ」
入ってきたのは、四十代前半の外国人男性だった。グレーのスーツに、きちんと結ばれたネクタイ。身長が高く、姿勢がいい。日本語で、ほとんど訛りのない声を出した。
「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。ダニエル・ヘイズと申します」
「坐って。立ち話はしない主義でね」
ヘイズは静かに向かいの椅子に腰を下ろした。手元には黒いブリーフケースだけがある。
玲は缶を机に置き、相手を観察した。
「外国人の依頼は、後で面倒なことになる率が高い。それでもいいなら話を聞く。ただし、解決を保証はしない」
ヘイズは短く頷いた。
「構いません。私は外資系企業の日本支社で、セキュリティを担当しています。三日前、重要な研究データが社内サーバーから消えました。バックアップの一部も破損しています。表向きは外部からのハッキングとされていますが……私は内部の人間が関与していると見ています」
「警察は?」
「呼べません。発覚すれば株価にも、本社の信用にも影響します。表に出せない形で、データを取り戻すか、少なくとも流出を止めてほしい」
玲は缶を指で回した。
「報酬は?」
ヘイズはブリーフケースから封筒を取り出し、机に置いた。厚みがある。
「着手金です。成功報酬は別途、倍額をお支払いします」
玲は封筒の中を確認もせず、短く息を吐いた。
「……金の匂いは十分にする。話を続けて」
調査は翌日から始まった。
玲はヘイズから、限定的なアクセス権限と社内の組織図、直近のログのコピーを受け取った。すべて非公式のものだ。
疑わしい人物をリストアップし、一人ずつ潰していく。元社員、家族、行きつけの店。地道な聞き取りを繰り返す。
表向きの調査では「高度な外部侵入」としか見えなかった。だが、矛盾は確実に存在した。
データが消える直前、中堅の技術社員・村上だけが、不自然な時間にサーバー室の近くを通っていた。村上には最近、急な借金が発覚しており、海外の匿名口座への送金記録も見つかった。
玲は村上の私生活をさらに掘る。行きつけの居酒屋で、同僚の一人がこう漏らした。
「村上さん、最近やけに余裕があるんですよ。借金があるって聞いてたのに」
玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。壁の地図を眺めながら、情報を整理する。
「消去じゃない。移動だな……」
さらに二日後。
玲はほぼ確信を得ていた。実行犯は村上で間違いない。しかし、一人でやるには工作が大がかりすぎる。背後に誰かがいる。
玲はヘイズに最小限の報告しかしなかった。すべてを信じるつもりは、最初からなかったからだ。
罠を張ることにする。
玲は村上に「買い手」の情報を流し、受け渡しを急がせた。場所は港近くの倉庫街。夜の十時。
雨がぱらつく中、玲は暗がりに潜んだ。ほどなく、村上が現れる。手元には小型の暗号化ドライブ。向かいから近づいてくる影は、一人ではなかった。
受け渡しの瞬間を、玲は写真に収めた。同時に、ヘイズ側の人間が動き、一帯を抑える。
村上が抵抗しようとするが、すぐに取り押さえられた。後ろにいた男も逃げ損ねる。男は支社の別の幹部、石川だった。
玲は雨に濡れながら、二人の前に歩み出た。
「データは『消えた』んじゃない。お前たちが移した。村上を実行役にして、石川さんが裏で糸を引いてた。競合に売って、自分は被害者面をするつもりだったんだろう」
石川の顔が強張る。
玲はそれ以上、深くは踏み込まなかった。
「後はヘイズさんに任せる。私は報酬以外に興味はないので」
翌日の午後。
玲は事務所で新しい缶コーヒーを開けていた。机の上には、厚みのある封筒が置かれている。成功報酬だ。
ヘイズから短い連絡が入った。データはすべて回収され、村上と石川は「社内で適切に処理された」とのことだった。玲の名前はどこにも出ない。
玲は封筒を引き出しにしまい、缶を傾ける。苦くて薄い。いつもの味だ。
「人間の欲の方が、よっぽど面倒くさいな……」
窓の外を車が走り去る音がした。枯れた観葉植物の葉が、微かな風で揺れる。
玲は椅子の背もたれに体を預け、目を細めた。
次に来る依頼が、またどれほど人間臭い Troubles を運んでくるのかは、まだわからない。
それでも彼女は、いつものように缶コーヒーを飲み干し、静かに次のノックを待った。




