第3話 古いアパートと、聞こえない声
雨が上がって三日目の夜だった。
雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。
古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には、開けたばかりの安い缶コーヒー。引き出しの奥には、黒い布に包まれた古い鏡が静かにしまってある。
ドアが、弱々しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、二十代前半の女だった。長い黒髪、青白い顔。目の下に濃いクマがあり、唇の血色が悪い。細い体を小さくして立っている。
「……黒崎玲さん、ですか」
「そう。坐って。立ち話はしない」
女は恐る恐る椅子に坐った。膝の上で指を絡め、何度も喉を鳴らす。
「三上奈々です。大学四年生で……お願いがあるんです」
玲は缶を傾けて一口飲んだ。
「顔色、死者みたいだね。睡眠薬でも飲みすぎた? それとも、ただの気のせいを本気で信じたいだけ?」
奈々は顔を上げた。目が少し赤い。
「気のせいじゃないんです。声が、聞こえるんです」
玲は眉を片方だけ上げた。
「続けて」
「築四十年の木造アパートに一人で住んでいて……夜中の二時を過ぎると、隣の部屋から女の声が聞こえるんです。泣き声や、誰かに訴えるような呟き。誰も住んでいないはずなのに。壁を叩いても、声は止まらない。最近は、私の名前を呼ぶようになって……」
玲は缶を机に置いた。金属音が小さく響く。
「管理会社は?」
「『気のせいでしょう』としか言ってくれません。引っ越し先もすぐには見つからなくて……もう、一人でいるのが怖いんです」
玲は奈々の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えない。ただ、追い詰められた人間特有の、薄い膜が張った目をしていた。
「除霊とか、そういうのはしない。原因を探って、対処するだけ。報酬は先に払ってもらう。それでいい?」
奈々は何度も頷いた。
翌日の午後。
玲は奈々のアパートを訪れた。駅から十分ほど歩いた、古い住宅街。木造二階建てのアパートは、外壁が黒ずみ、雨樋が歪んでいる。湿った木の匂いが鼻についた。
奈々の部屋は二階の角部屋。窓はすべて二重にロックされ、カーテンが厚く閉じられている。室内は意外ときれいだったが、空気が重い。
「隣、開けてもいい?」
玲は空き室の鍵を管理会社から借りて、隣室に入った。ほこりと、古い畳の匂い。壁には大きなシミが広がっている。床の一部が不自然に削れ、黒い染みが沈んでいた。
玲が壁に手を当てると、指先がひやりとした。
近所の住人を何人か当たると、十年以上前の話が浮上した。
「あそこで若い女が首を吊ったんだよ。夜中に泣き叫んでたらしい。警察が来て、それから誰も寄りつかなくなってね」
玲は事務所に戻り、缶コーヒーを飲みながら情報を整理した。引き出しの中の鏡が、気になった。布の上からでも、微かな冷たさが伝わってくる気がする。
「……また、こっち系か」
その夜。
玲は奈々の部屋に戻ってきた。奈々はリビングの端で膝を抱え、玲は壁際に椅子を置いて坐る。安い缶コーヒーを両手で包み、時計を見る。
一時五十分。
部屋の温度が、急に下がった。
息が白い。窓は閉め切っているのに、冷たい空気が足元から這い上がってくる。
二時ちょうど。
壁の向こうから、音がした。
最初は小さな掻きむしる音。爪が木を削るような、湿った音。次に、女の声。低く、喉の奥で詰まったような呟き。
「……だれ……か……」
奈々が小さく悲鳴を噛み殺す。玲は手で制し、壁に耳を近づける。
声は徐々に大きくなり、はっきりと言葉を結び始めた。
「痛い……首が……誰か……助けて……」
壁を叩く音がした。内側から。強く、規則的に。
ドン、ドン、ドン。
玲が壁を拳で叩き返すと、音が止まった。代わりに、すぐ耳元で囁くような声がした。
「……玲……」
玲の名前を呼んだ。奈々は聞いていないはずの名前を。
玲は表情を変えず、ポケットから小型の録音機を取り出した。同時に、バッグから黒い布に包んだ鏡を出す。布を一枚だけめくり、鏡の表面を壁に向けた。
冷気が一気に強くなる。部屋の隅に、人影のようなものが一瞬よぎった。長い髪、首が不自然に傾いだシルエット。
奈々が口を押さえて震え始める。
玲は低く言った。
「出てこい。ただの残留じゃ、私を怖がらせるには足りない」
壁のシミが、ゆっくりと黒い水のように流れ出した。床に落ちた染みが、人の形を作ろうとして揺れる。泣き声が、部屋中に反響した。高く、引き裂くような声。
「かえして……かえして……私の……」
玲は鏡を布で完全に包み直し、シミの中心に向かって投げつけた。布包みが床に落ちた瞬間、冷気が爆発するように散る。影が歪み、声が獣のような呻きに変わった。
玲は奈々を抱き起こし、部屋を出た。ドアを閉めた直後、内側で何かが激しく壁を叩く音が続いた。
朝方。
玲は再びアパートに入り、隣室の床下を調べた。古い日記帳が、ビニールに包まれて隠してあった。自殺した女のものだ。ページには、誰かに付け狙われていたこと、夜中に「鏡に映る自分」が笑っていたこと、首を絞める影が見えたことが記されている。最後のページには、玲の事務所にある鏡と同じ記号が、血のようなインクで描かれていた。
玲は日記を袋に入れ、アパートを出た。管理会社に「床下から不審物が出た」とだけ伝え、処分を任せる。
奈々には短く告げた。
「もう、ここには戻らない方がいい。声は当分残る。感受性の高い人間には、特にね」
奈々は泣きながら何度も頭を下げた。玲は「報酬は振込で」とだけ言って、その場を離れた。
事務所に戻ったのは、昼過ぎだった。
玲は引き出しを開け、鏡を奥にしまった。布をきつく、二重に結び直す。指先がまだ少し冷たい。
新しい缶コーヒーを開け、一口飲む。苦くて薄い。いつもの味だ。
「次は、人間同士のトラブルがいいんだけどな……」
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。
引き出しの中で、鏡が布の隙間から、暗く光った。
玲は缶を机に置き、目を閉じた。
まだ、耳の奥で、あの泣き声の残滓が消えていなかった。




