第2話 血の匂いと、古い鏡
雨の気配がする夕方だった。
雑居ビル三階の事務所。
玲はいつもの安い缶コーヒーを手に、机に肘をついていた。壁の古い地図、枯れた観葉植物、古びた木製の机。すべては変わらない。引き出しの奥には、黒い布に包んだ古い鏡がしまってある。
ドアが、乱暴にノックされた。
「開けろ」
玲は眉をひそめた。
「ドアは開いてる。自分で開けて入れ。手間かけさせるな」
入ってきたのは二十代半ばの男だった。黒いスーツに派手な腕時計。短く刈り込んだ髪、鋭い目つき。だが、その目の奥にはまだ青さが残っている。
「黒崎玲だな」
「そうだけど。座るか、出ていくか、選べ」
男は舌打ちをして、向かいの椅子にどかりと坐った。
「桐谷翔だ。依頼がある」
玲は缶を机に置き、男をじっと見た。
「話す前に言っとく。うちは表の仕事は扱わない。金の匂いがしなきゃ動かない。それでいいなら続けろ」
桐谷は懐から封筒を取り出し、机に置いた。中には現金が詰まっているのがわかった。
「兄貴分が殺された。港の倉庫でな。組織では対立の仕業で処理しようとしてる。でも俺は違うと思う。内部の人間がやった」
「証拠は?」
「ねえよ。だからお前に頼むんだよ」
玲は封筒の厚みを視線で測り、短く息を吐いた。
「……金の匂いはする。話を聞こう」
調査は翌日の朝から始まった。
玲はまず港の倉庫へ向かった。事件現場はすでに片付けられ、白いテープだけが残っている。近所の作業員に話を聞き、死体の第一発見者の証言を拾う。争った形跡は少なく、背後から刺された可能性が高い。
次に森岡の行きつけのスナック。ママは警戒しながらも、こう漏らした。
「森岡さん、死ぬ前の週くらいから様子がおかしかったわ。誰かに追われてるみたいで……『鏡』とか呟いてた」
玲の指が、缶コーヒーの表面で止まった。
「鏡?」
「古い鏡の話。『あいつを映すと過去が見える』とか、わけのわからないことを言ってたわ」
事務所に戻った玲は、引き出しを開けた。黒い布に包まれた鏡が、静かに収まっている。第1話で預かったものだ。
「……繋がるか」
玲は小さく舌打ちをした。面倒なものが、また顔を出した。
さらに二日。
玲は組織の末端を当たり、会計を担当する中年男・榊原に目をつける。榊原は森岡の死後、急に高級腕時計をつけ始め、夜の店で散財していた。
桐谷を使って榊原を泳がせる。玲は自分は影に回り、男の動きを追った。
雨の夜。港の倉庫に榊原を追い詰めたとき、男は逆に笑った。
「お前もか。あの鏡を持ってる探偵だろう。森岡が探してたやつだ」
榊原は懐から小さなメモを取り出した。鏡の力を利用して人を精神的に追い詰める方法が、走り書きされていた。
「森岡は俺の不正に気づきかけた。だから鏡の話を吹き込んで、毎晩『自分の失敗』を見せてやった。最後は自分から崩れたさ」
玲は雨に濡れながら、平然と答えた。
「それで刺殺した。抗争に見せかけて」
「そうだ。で? お前はどうする。鏡を俺に渡せば、金を弾むぞ」
玲はバッグから何も出さなかった。ただ、静かに言った。
「渡さない。それに、お前はもう終わりだ」
背後で桐谷が現れる。組織の他の人間も数人、暗がりから出てきた。玲は最初から、桐谷に連絡を入れていた。
榊原の顔が歪む。
玲は彼に近づき、低く囁いた。
「鏡の力を過信するな。過去を見せられても、人間は案外簡単には壊れない。お前が壊したのは、鏡じゃなくて、自分の手だ」
それだけ言って、玲は背を向けた。
「後は好きにしろ。ただし、私の事務所に Troubles を持ち込むなよ」
翌日の夕方。
玲は事務所で新しい缶コーヒーを開けていた。雨は上がり、窓から薄い光が差し込んでいる。
引き出しを開け、鏡の布をきつく巻き直す。布の感触は冷たい。
「次はもっと平和な依頼がいいんだけどな……まあ、期待しないか」
玲は缶を傾け、苦くて薄い液体を口に含んだ。
壁の古い地図が微かに揺れる。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てた。
布の隙間から、鏡がほんのわずか光を反射する。
玲はそれに目もくれず、机に缶を置いた。




