第1話 消えた夫と、安いコーヒー
雑居ビルの三階。
錆びた手すりを上がり、薄汚れたドアを開けると、そこが黒崎玲の事務所だった。
室内は薄暗い。窓の外から差し込む光は、埃をくぐってぼんやりと床に落ちているだけだ。古びた木製の机、それに合わせた椅子。壁には古い地図が貼られ、隅の観葉植物はほとんど枯れていた。机の上には、開けたばかりの安い缶コーヒーが置かれている。
玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を傾けて一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。
ドアがノックされたのは、そのときだった。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代半ばくらいの女だった。控えめな化粧に、シワのないベージュのワンピース。目元だけが少し伏せ気味で、疲れが見える。
「……黒崎玲さん、でしょうか」
「そうだけど」
玲は缶を机に置き、女を視線だけで値踏みした。
「佐藤美咲と申します。主人のことで、相談があって……」
「坐って」
玲は椅子を顎で示し、改めて缶コーヒーを口に運んだ。
美咲は恐る恐る向かいの椅子に坐った。ハンドバッグを膝の上で握りしめている。
「話を聞きましょう。ただし、最初に言っておくけど——期待はしないでください。解決する保証なんて、どこにもありませんから」
美咲は小さく息を吸った。
「主人が、二週間前から行方不明なんです」
「警察には行った?」
「はい。でも、事件性はないと言われて……」
「当たり前ですよ。大人の男が自分の意思で消えただけなら、警察が動く理由がない」
玲の声は平坦で、容赦がなかった。
「それでうちに来た、と。普通の蒸発じゃないとでも思ってるわけ?」
美咲は唇を噛んだ。それでも、目は逸らさなかった。
「……主人は、そんな人じゃないんです。真面目で、家庭的で。突然消えるような人間じゃ、なかった」
玲は缶をゆっくり回した。金属の冷たい感触が掌に残る。
「名前と年齢」
「佐藤健一、三十八歳です」
「職業は?」
「中堅のメーカーで、営業をしていました。でも会社に問い合わせたら、『自己都合退職』としか……」
「携帯電話は?」
「通じません。電源が切れているみたいで」
玲は小さく息を吐いた。
「わかりました。話は聞きましょう。ただし、動くかどうかはこちらが決めます。報酬の話も、そのあとで」
美咲は何度も頷いた。
玲は机の引き出しから古い手帳を取り出し、ペンを走らせた。枯れた観葉植物の葉が、微かな風で揺れた。
「では、最初から話してください。夫が消える前、何か変わったことはなかったか。些細なことでいい」
美咲は視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
玲は缶コーヒーをもう一口飲み、淡々とメモを取り始めた。
——面倒くさい案件になりそうだ、と、彼女はすでに思っていた。
二日後。
玲は美咲の自宅を訪れた。古いが手入れの行き届いた一軒家だ。リビングは整頓され、家族写真が飾ってある。健一は写真の中で穏やかに笑っていた。
「書斎を見せてもらえますか」
美咲に案内された部屋は、机の上がきれいに片付けられていた。玲は引き出しを一つずつ開け、本の隙間を指で探る。
「……これ、何?」
机の奥から出てきたのは、古い真鍮の鍵と、折りたたまれた紙切れだった。紙には手書きの住所が走り書きされている。都心からかなり離れた場所だ。
美咲は首を横に振った。
「見たこと、ありません」
玲は鍵と紙を手帳に挟み、次に健一の会社へ向かった。
人事部の担当者は、型通りの対応しかしてくれなかった。
「佐藤は自己都合で退職届を提出しています。それ以上のことはお答えできません」
玲は受付のソファで待っていた若い社員を呼び止めた。
「健一さんと同期? 最近、様子おかしくなかった?」
社員は周りを気にしながら、小さく答えた。
「……少し、暗かったです。夜遅くまで残って、誰かと電話してることもありました。内容までは聞こえませんでしたが」
居酒屋にも当たった。常連らしい店主は肩をすくめた。
「ここ二ヶ月くらい来てないね。前は月に二、三回は顔出してたのに」
小さな違和感が、静かに積み重なっていく。
玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。机の上に鍵と紙切れを並べ、壁の古い地図で住所を確認する。
「……面倒くさい方向に来たな」
紙切れの住所は、郊外の古いアパートだった。築四十年は確実に経っていそうな、コンクリートの壁が剥落した建物。
管理人は不在で、呼び鈴も壊れている。玲は鍵穴に真鍮の鍵を差し込んだ。スムーズに回る。
部屋の中は薄暗く、ほこりが舞っていた。それでも、生活の痕跡は新しい。畳の上に敷かれた薄い布団、使いかけのペットボトル、コンビニの弁当の殻。
玲は部屋を一周し、押し入れの奥を探った。黒い布に包まれた小さな木箱がある。布を外すと、中から古びた手鏡と、薄い紙に書かれた奇妙な記号が出てきた。
鏡の表面は曇っている。玲が指で触れると、ほんの一瞬、何かが動いた気がした。
「……はあ」
玲は小さく舌打ちした。
「やっぱり、こっち系か」
彼女は鏡を布で包み直し、箱ごとバッグに入れた。部屋を出る前に、窓の外を一度だけ見た。曇り空が、低く垂れ込めている。
真相は、それから半日でおおよそ掴めた。
健一は数ヶ月前から、古物商まがいの男と接触していた。男は「持ち主の記憶の一部を映す鏡」を扱い、健一はそれに強く惹かれたらしい。過去の後悔——仕事での失敗、親との確執、妻に言えなかった小さな嘘——を、鏡は何度も映し出した。
健一は次第に精神を削られ、ある夜を境に家を出た。会社には簡単に退職届を出し、携帯電話の電源を切った。
玲は鏡を直接使うことはしなかった。論理と、残された痕跡だけで、健一の居場所を特定する。
郊外の安ホテル。フロントの帳簿に「佐藤」の名前があった。部屋番号を聞き、ドアをノックする。
しばらくして、扉が細く開いた。中から出てきた男は、写真より明らかに痩せて、目の下に濃い影を落としていた。
「……誰だ」
「黒崎です。奥さんに頼まれました」
健一は一瞬、息を止めた。
玲はバッグから鏡の箱を取り出し、机の上に置いた。
「これ、あなたのやつでしょう。もう見なくていい。見たところで、過去は変わりませんから」
健一は何も言わず、箱を見つめた。肩が小さく震えている。
「奥さんは待ってます。帰るなら、今のうちですよ。私は報酬をもらって終わりなので」
玲はそれだけ言って、部屋を出た。廊下を歩きながら、缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
翌日。
美咲は事務所に礼を言いに来た。目元が少し赤くなっている。
「ありがとうございました。主人は……少しずつ、普通に戻りつつあります」
玲は机の向こうから、短く答えた。
「報酬は約束通りで。振込で結構です」
美咲は何度も頭を下げ、事務所を出て行った。ドアが閉まる音が、静かに響く。
玲は引き出しを開け、黒い布に包んだ鏡をしまった。いつもの缶コーヒーを新たに開け、一口飲む。
苦くて薄い。いつもの味だ。
「次はもっと金になる依頼がいいんだけどな……」
壁の古い地図が、微かな風で揺れた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てる。
引き出しの中で、鏡がほんのわずか光を反射した。
玲はそれに気づかないふりをして、缶を机に置いた。




