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『裏探偵・黒崎玲の事件簿』  作者: 蒼狐


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第10話 置いていった箱と、開けない約束

午後の光が、窓から斜めに落ちていた。


雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。


黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。


ドアが、静かにノックされた。


「どうぞ」


入ってきたのは、三十代半ばの女性だった。黒いシャツに、シンプルな腕時計。落ち着いた雰囲気で、声は低めだった。室内を一瞥してから、玲の前で小さく頭を下げた。


「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。川上透子と申します」


「坐って。立ち話はしない」


透子は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。手元に、黒い布で包んだ小さな箱を抱えている。


玲は缶を机に置いた。


「置いていった荷物の始末? そういうのは警察か、遺失物センターでいいんじゃない。それでもうちに来るってことは、普通の荷物じゃないわけ?」


透子は一度、箱を見下ろしてから口を開いた。


「常連の客が、ある夜を最後に来なくなったんです。名前は瀬戸。ここ数年、週に一度は必ず来ていた人で……その人が最後に、この箱をカウンターに置きました。『もし何かあったら、これを預けます。中は絶対に開けないでください』とだけ言って。それから三週間、連絡がありません」


玲は箱を視線で測った。手のひらに収まるくらいの、古い木箱だ。装飾はほとんどない。


「中を見なかったの?」


「約束したので。ただ……店に置いていると、夜中に誰かの気配がするんです。気のせいだと思いたいんですけど」


玲は短く息を吐いた。


「……報酬は?」


透子はバッグから封筒を取り出し、机に置いた。


「これでお願いします。足りなければ追加します」


玲は封筒を確認もせず、箱の方へ顎をしゃくった。


「とりあえず、それをこっちに置いて。中は開けない。約束は守る」



調査は翌日から始まった。


玲は瀬戸の足取りを追い始めた。表向きは普通の会社員で、数年前に家族を病で亡くし、その後は一人で静かに暮らしていた。住居は整理整頓され、生活感は残っているが、すでに数週間人が入っていない気配がした。


近隣への聞き取りでは、「瀬戸さんはいつも一人だった」「最近は体調が悪そうだった」という声が返ってくる。最後に彼を見た人物は、「誰かと公園で話しているところを見た」と証言した。相手の顔まではわからない。


玲は箱を事務所に持ち帰り、机の端に置いた。夜になり、缶コーヒーを飲んでいると、箱の周囲の空気がわずかに冷たくなるのがわかった。引き出しの中の古い鏡が、布の上から微かに反応する。冷気のようなものが、箱と鏡の間を結ぶように漂った。


玲は小さく舌打ちをした。


「……面倒なものが、また反応してる」



三日目。


玲は透子のバーにも足を運んだ。カウンターで話を聞きながら、瀬戸の人柄を拾う。彼は「人に迷惑をかけたくない」とよく言っていたという。誰かに何かを託すような素振りは、箱を置いた夜が初めてだった。


さらに調査を進めると、瀬戸が病を抱えていたことが判明する。余命が長くないことを、本人は自覚していた。箱を預けたのは、自分の死後に「本当に渡したい相手」へ届けるためだった可能性が高い。


しかし、その相手は透子ではなかった。瀬戸がかつて、遠くから守ろうとしていた人物がいた。家族ではなく、もっと私的な関係の人間だ。


玲は箱を開けずに、その人物の元へたどり着く方法を探した。瀬戸が残した僅かな手がかり——古い写真の端に書かれた数字と、手帳の端に記された地名——を頼りに、足を運ぶ。



五日目の夕方。


玲は、郊外の小さなアパートの前に立っていた。ドアをノックすると、三十代の女性が出てきた。警戒した目で玲を見る。


玲は余計な説明をせず、箱を差し出した。


「瀬戸さんから預かったものだそうです。中は開けていません。あなたに渡すように、と」


女性は箱を見て、一瞬、息を止めた。それから、ゆっくりと受け取った。箱に触れた瞬間、周囲の空気がすうっと軽くなるのが、玲にもわかった。冷気が引き、鏡の反応も同時に弱まる。


女性は箱を胸の前で抱き、小さく頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」


玲はそれ以上、聞かなかった。中身も、関係も、必要最低限しか知るつもりはなかった。



その夜。


玲は透子に連絡を入れ、事務所で報告した。


「箱は、無事に届いた。中身を知る必要はない。気配も、もうしないはず」


透子は長く息を吐き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。約束を、守ってくれて」


玲は短く肩をすくめた。


「約束を守っただけ。それ以上でも以下でもない」



ドアが閉まった後、事務所に沈黙が戻る。


玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。


引き出しを開け、古い鏡の布を確認する。きつく結び直す。冷たい感触は、もうほとんど残っていなかった。


「開けない約束ほど、重いものはない……」


誰に言うでもなく、呟く。


窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。


引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。


玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。


次に来る依頼が、またどんな箱を運んでくるのかは、わからない。

それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。


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