第11話 届いた写真と、知らない娘
午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、丁寧にノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、四十代半ばの男性だった。グレーのスーツに、少し緩んだネクタイ。真面目そうな印象なのに、目元に強い動揺が浮かんでいる。室内を一瞥してから、玲の前で頭を下げた。
「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。杉浦亮と申します」
「坐って。立ち話はしない」
杉浦は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。手元の封筒を、両手で大切に押さえている。
玲は缶を机に置いた。
「突然『娘がいます』って写真が届くような話は、だいたい詐欺か、誰かの嫌がらせで終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
杉浦は封筒から一枚の写真と、短い手紙を取り出した。写真には十五、六歳くらいの少女が写っている。清楚な服装で、少し緊張した表情。目元が、杉浦に似ているようにも見える。
手紙にはこう書かれていた。
『あなたの娘です。会いたいと思ったら、この番号に連絡を』
住所も名前もない。番号だけが記されている。
「私に子供はいないはずなんです。妻もいません。なのに、こんなものが自宅のポストに……」
玲は写真を机に置き、じっと見た。
「報酬は?」
杉浦は別の封筒を取り出し、机に置いた。それなりの厚みがある。
「これでお願いします。足りなければ追加します」
玲は短く息を吐いた。
「……話を続けて。過去に交際していた相手で、子供ができた可能性のある人はいる? 正直に」
調査は翌日から始まった。
玲はまず、手紙に書かれた番号を調べた。使い捨てに近い携帯電話で、すぐに繋がらなくなった。写真の紙質や印刷の状態から、最近になって急いで作られたものだとわかる。
次に、杉浦の過去を洗った。二十年前、彼には短い交際相手がいた。女性はすでに病で亡くなっていたが、当時「子供を妊娠していたかもしれない」という噂が、ごく一部の共通の知人の間で残っていた。
玲はその知人たちを地道に当たり、情報を拾っていく。
「杉浦さんは、当時すごく真面目で。彼女が別れを切り出してから、ほとんど連絡を取らなかったんです。子供の話は、彼女が誰かに漏らした程度で、正式に確認されたわけじゃありません」
玲は事務所に戻り、いつもの缶コーヒーを開けた。壁の古い地図を眺めながら、写真の少女の顔を改めて見る。似ているようにも、似ていないようにも見える。人間の目は、都合のいい方に寄せてしまう。
四日目。
玲は少女の正体に近づいていた。写真の背景に写り込んだ建物から、おおよその地域を特定。そこから学校や近所の情報を辿ると、実在する少女であることが判明する。
しかし、杉浦の実の娘ではなかった。
少女は、杉浦の元交際相手の遠い親戚の子供だった。元交際相手が亡くなる前に「あの人に似た子がいる」と誰かに話したことが発端で、一部の人間がそれを利用しようとしていた。
背景には、二つの意図が絡んでいた。
一つは、金銭を得る目的。
もう一つは、過去のわだかまりを杉浦にぶつけてみたいという、歪んだ感情。
玲は関係者を一人ずつ突き、事実を整理した。これ以上の接触をしないよう、明確に釘を刺す。
五日目の午後。
玲は杉浦を事務所に呼び、机を挟んで向かい合った。写真を彼の前に戻す。
「実の娘じゃない。元交際相手の親戚の子だ。誰かが『似ている』ことを利用して、近づこうとしていただけ。金目当ての人間と、過去を引き摺っている人間が混ざっている。どちらにせよ、あなたに得はない」
杉浦は写真を見つめたまま、しばらく動けなかった。安堵の色と、どこか寂しそうな影が、同時に顔をよぎる。
「……そう、ですか」
「そうよ。これ以上深入りしない方がいい。会おうとすれば、相手のペースに巻き込まれるだけ」
玲の声は冷たいまま、事実だけを置いた。感情的な慰めはしない。
杉浦は深く頭を下げ、写真を封筒に戻した。
「ありがとうございました。助かりました」
玲は短く頷いただけだった。
ドアが閉まった後、事務所に沈黙が戻る。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。
「血の繋がりを求める人間ほど、簡単に騙される……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな写真を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




