第12話 返ってきた本と、書き込みの行方
午後の光が、すでに傾き始めていた。
雑居ビル三階の事務所は、相変わらず薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、弱々しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、五十代後半の女性だった。眼鏡をかけ、髪を丁寧にまとめている。しかし顔色は青白く、目元に濃い影が落ちていた。室内を一瞥してから、玲の前で小さく頭を下げた。
「黒崎玲さんでいらっしゃいますか。堀田靖子と申します。古書店を営んでおります」
「坐って。立ち話はしない」
堀田は静かに向かいの椅子に腰を下ろした。手元に、一冊の文庫本を抱えている。指先が、わずかに震えていた。
玲は缶を机に置いた。
「本が返ってきた程度でそんな顔する? ……気配がする、影が動く、と言うなら、ただの悪戯じゃ済まない可能性もある。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
堀田は本を机に置いた。十年以上前に店で売った文庫本で、表紙は色あせ、角がすり減っている。
「匿名で、段ボールに入れられて店のポストに投函されていたんです。中に鉛筆の書き込みが……誰かに宛てたような、後悔の言葉ばかりで。それ自体はまだよかった。でも、この本を店に置いていると、夜中にページが勝手にめくれるんです。低い声がして、人影が本の周りに立つ。もう、限界で……」
玲は本を手に取り、パラパラとページを開いた。鉛筆の書き込みが、びっしりと残っている。「謝りたかった」「あのとき、本当は」「届いていない」——短い言葉が、繰り返し書かれていた。
「報酬は?」
堀田は封筒を取り出し、机に置いた。手つきが、どこか必死だった。
「これでお願いします。どうか……」
玲は短く息を吐いた。
「中は開けない約束、みたいなのはない? ……ないなら、一旦ここへ置いて。夜に何か起きたら、それで判断する」
その夜。
玲は本を机の端に置き、いつもの缶コーヒーを飲んでいた。時計が一時を回った頃、空気が変わった。
最初は、紙の擦れる音だった。誰も触っていないのに、ページがゆっくりとめくれる。一枚、また一枚。書き込みが、光を当てなくても濃く浮かび上がるように見えた。
次に、冷気。足元から這い上がるような、湿った冷たさ。引き出しの中の古い鏡が、布の上から微かに振動した。
影が、壁に落ちた。長い髪の、女性のシルエット。首が不自然に傾ぎ、本の方を見ている。
声がした。低く、喉の奥で擦れるような声。
「……届いていない……謝りたかった……」
玲は表情を変えず、本を黒い布で包んだ。影が歪み、冷気が強く散る。鏡が、引き出しの中で小さく鳴った。
「面倒くさい残留だ」
玲は小さく舌打ちをして、調査を始めることにした。
三日かけて、玲は事実を積み重ねた。
書き込みの主は、十数年前に病で亡くなった女性だった。堀田の店の元常連で、生前は静かな人柄だったという。本を匿名で返送したのは、故人の妹だった。姉が亡くなる前に「あの本を店に返したい。書き込みを読んでもらいたくて」と何度も漏らしていたことを、ようやく実行しただけだという。
しかし、故人の後悔はあまりに強かった。書き込みを「誰かに読んでほしい」という想いが、本に濃く残留し、依り代と化していた。特に、堀田に対して何かを返せなかったという思いが、芯になっていた。
玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。布に包んでも、ページをめくる音がする。影が天井に伸び、声が耳元で直接囁くようになる。鏡は頻繁に冷え、布を通してさえ冷気が漏れた。
玲は淡々と対処した。感情的にはならない。ただ、論理と、残留を鎮める手順を並行して進める。
五日目の夜。
玲は故人の遺品が残る場所——妹が管理する古いアパートの一室——へ、本を持って行った。故人の日記や、使いかけの筆記用具が、丁寧に箱にしまってある。
玲は本をその箱の前に置き、布を外した。
即座に冷気が爆発するように広がった。ページが激しくめくれ、影が部屋の中央に濃く立ち上る。声が、ほとんど悲鳴に近い形で響いた。
「届いていない——! 謝りたかった——!」
玲は影に正面から向き合わなかった。ただ、静かに言った。
「書き込みは、読んだ。堀田も読んだ。もう届いている。繰り返すな」
影が歪み、本のページが逆巻きに激しくめくれる。鏡を事務所に置いてきたことが、逆に残留を不安定にさせているようだった。玲は動じず、故人の日記を一ページだけ開いて見せた。
「あなたが残したものは、これで全部だ。未練を、本に押し付け続けるな」
影が、一度大きく膨れ上がった。冷気が肌を刺す。しかし、玲が淡々と同じ言葉を繰り返すうちに、徐々に勢いが弱まった。
最後に、ごく小さな声が残った。
「……ありがとう」
影が消え、ページが自然に閉じる。冷気が、すうっと引いていった。
翌日。
玲は堀田を事務所に呼び、本を返した。
「もう、安全だと思う。店に戻していい。気配も、しないはず」
堀田は本を受け取り、深く頭を下げた。詳しい説明は求めなかった。玲も、しなかった。
「書き込みは、ちゃんと届いた。それだけ」
堀田が帰った後、事務所に沈黙が戻る。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。指先が、まだ少し冷たい。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく結び直す。
「未練の強い本ほど、手がかかる……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな本を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




