第13話 開いてはいけない扉と、残された家族
夜の気配が、すでに窓の外に落ちていた。
雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、激しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、二十代後半の女性だった。長い髪は乱れ、目の下に濃いクマが落ちている。唇の血色が悪く、手元が小刻みに震えていた。室内を一瞬見ただけで、すぐに玲の前に立った。
「黒崎玲さん……ですよね。早川美咲です。お願いがあって、来ました」
「坐って。立ち話はしない。それと、そんな顔で飛び込んでくるな。落ち着いてから話せ」
美咲は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、前のめりになったまま、両手を膝の上で強く握りしめている。
玲は缶を机に置いた。
「古い家で声がする、影が見える、という話は多い。ほとんどは配管か、ネズミか、ただの思い込みで終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
美咲は喉を鳴らしてから、低い声で話し始めた。
「一ヶ月前に引っ越したんです。築四十年の木造の一軒家で。家賃が安くて、駅からも遠くなくて……前の住人は『家族で暮らしていた』としか聞かされていませんでした。最初の一週間は何もなかった。でも、二週目の夜から、音がし始めたんです」
玲は手帳を開き、淡々とペンを走らせた。
「どんな音?」
「子供の走る音です。二階の廊下を、ばたばたと。それから、大人の男女が言い争う声。低い怒鳴り声と、女性の泣き声。誰かが扉を内側から叩く音。最初は『気のせい』って思おうとしました。でも、最近は……私の名前を呼ぶんです。はっきりと。『美咲』って。扉の向こうに、人影が立つようになって。複数の影が」
玲は缶を指で回した。金属の冷たい感触が、掌に残る。
「警察や管理会社は?」
「どちらも『事件性はない』『古い家によくある音でしょう』としか言ってくれません。友人に話しても、信じてもらえなくて……もう、限界なんです」
玲は美咲の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に追い詰められた人間特有の、薄い膜が張った目をしていた。
「報酬は?」
美咲は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。
「これしか、今は用意できなくて。足りなければ、分割でも……」
玲は短く息を吐いた。
「話は聞いた。動くかどうかは、家を見てから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」
翌日の午後。
玲は美咲の家を訪れた。住宅街の奥まった場所にある、古い木造一軒家だった。外壁は黒ずみ、雨樋が歪み、庭の木は手入れされずに伸び放題になっている。湿った木の匂いと、どこか甘い腐臭のようなものが、微かに混じっていた。
美咲に鍵を借り、一人で中に入る。一階はまだ普通だった。埃っぽいが、生活感がある。しかし、階段を上がるにつれて、空気が変わった。温度が下がり、湿度が上がる。二階の廊下に足を踏み入れると、足元から冷たいものが這い上がってくるような感触があった。
特に異様だったのは、廊下の突き当たりにある和室の扉だった。古い障子戸で、鍵はかかっていない。なのに、触れた瞬間に異常な重さを感じる。押しても、引いても、数センチしか動かない。扉の表面には、内側から爪で掻いたような細い傷が、複数残っていた。
玲は扉に耳を当てた。昼間なのに、ごく小さく、子供の笑い声のようなものが聞こえた気がした。
「……面倒くさい家だ」
その夜。
玲は再び家を訪れた。美咲は一階のリビングで待機させ、玲は二階の廊下に椅子を置いて坐った。安い缶コーヒーを両手で包み、時計を見る。空気はすでに冷たく、息が白くなり始めていた。
一時四十分。
最初に聞こえたのは、足音だった。小さな子供が、裸足で廊下を走る音。ばたばた、ばたばた。どこから始まって、どこで終わるのかわからない。音だけが、廊下を往復する。
次に、声。
男性の低い怒鳴り声と、女性の抑えきれない泣き声が重なった。言葉の内容までは聞き取れない。ただ、激しい感情だけが、空気を震わせる。
二時ちょうど。
和室の扉が、内側から叩かれた。
ドン、ドン、ドン。
強く、規則的に。障子が揺れ、埃が舞う。影が、障子に映った。大人の男、女、そして小さな子供。三つの影が、重なり合い、もつれ合いながら動いている。
「……美咲」
声がした。複数の声が重なって、美咲の名前を呼ぶ。子供の高い声、女の掠れた声、男の低い声。同時に、別々に。
玲は椅子から立ち上がり、扉に近づいた。冷気が肌を刺す。影が、障子の向こうで玲の方を向いたのがわかった。
「開かない扉を、そんなに叩きたいのか」
玲が低く呟くと、叩く音が止まった。代わりに、扉の隙間から、黒い何かがゆっくりと伸びてきた。指のような形。しかし、関節の位置がおかしい。長く、細く、湿った光を反射している。
玲は一歩も引かなかった。缶コーヒーを一息で飲み干し、空になった缶を静かに床に置いた。
「残留にしては、しつこいな」
調査は、それから二日かけて行われた。
玲は前の住人について調べた。十年前、この家に住んでいた一家——夫婦と幼い娘——が、同じ夜に亡くなっていた。表向きは「火事による事故死」として処理されていたが、実際には火の勢いは不自然に弱く、三人の死因にも不自然な点があった。近隣では「家族の確執が爆発した」という噂だけが、ひっそりと残っていた。
玲が事務所に戻るたびに、引き出しの古い鏡が強く反応した。布を通してさえ冷気が漏れ、鏡の表面に一瞬、三人の影が重なって映ることがあった。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。
「家族の残留か。一番手がかかるタイプだ」
四日目の夜。
玲は美咲を近所のビジネスホテルに移し、一人で家に入った。二階の廊下は、すでに息が白くなるほど冷えていた。和室の扉は、内側から激しく叩かれ続けている。障子に映る影は、以前より濃く、実体めいていた。
玲は扉の前に立ち、淡々と話し始めた。
「あなたたちは、もう終わっている。十年前に終わった。ここにいる理由はない。新しい住人を追い出しても、何も戻らない」
扉が爆ぜるように揺れた。影が障子を突き破るように膨らみ、冷気と一緒に黒いものが溢れ出そうとする。子供の泣き声、女の orth、男の咆哮が重なり、耳鳴りのように頭の中で反響する。
玲は動かなかった。持ってきた前の住人の遺品——当時の写真と、簡単な記録のコピー——を、扉の前に置いた。
「これが、あなたたちだ。もう、ここにはいない。繰り返し続けるな」
影が一気に溢れ出した。長い腕のようなものが玲の肩に触れ、冷たく、重く、引き込もうとする。声が直接、頭蓋の内側で響く。
「出ていけ——出ていけ——ここは私たちの——」
玲は影に掴まれた肩を、ゆっくりと払った。声は冷ややかなままだった。
「出ていくのは、あなたたちの方だ。終わったものを、終わったままにしておけ」
影が、一度大きく歪んだ。冷気が頂点に達し、障子が裂け、黒いものが部屋中に散る。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。
最後に残ったのは、子供の小さな声だった。
「……おかあさん」
影が、音もなく消えていく。冷気が引き、扉の重さが、すうっと軽くなった。玲が扉に手をかけると、今度は普通に開いた。中の和室は、ただの空っぽの部屋だった。湿った匂いだけが、微かに残っている。
翌朝。
玲は美咲を家に呼び、短く告げた。
「もう、音はしないはずだ。影も出ない。ただし、長く住むなら別の場所を探した方がいい。家自体に、染み付いたものは完全には抜けない」
美咲は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、その場を離れた。
事務所に戻ったのは、昼過ぎだった。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。指先が、まだ少し冷たい。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。鏡はもう、ほとんど反応していなかった。
「家族の残留ほど、しつこいものはない……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな家を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




