第14話 映らない鏡と、消えた顔
午後の光が、すでに濁っていた。
雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、ほとんど音を立てずにノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代前半の女性だった。髪はラフにまとめられているが、ところどころが汗で張りついている。目の下に濃い影が落ち、唇は血の気を失っていた。人の顔を直視できず、視線が机の上や壁を incremental に彷徨っている。
「……黒崎玲さん、ですか。桐谷恵です。お願いが、あって」
「坐って。立ち話はしない。それと、そんな目で室内を泳ぐな。落ち着いてから話せ」
恵は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、両手を膝の上で強く握りしめ、時折自分の指先を見つめる。
玲は缶を机に置いた。
「鏡に顔が映らない? そういう話は、だいたい睡眠不足か、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
恵は喉を何度も鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。
「一週間前の朝からです。洗面所の鏡に、自分の顔が映らなくなったんです。代わりに、知らない女の顔が映る。最初は一瞬だけだった。でも、どんどん長くなって……今は、鏡を見るたびに、その女が私を見返してくる。スマホのカメラでも、写真でも、自分の顔が徐々にその女に近づいている。友人に見せても『気のせいでしょう』としか言われなくて。このままじゃ、自分が自分でなくなりそうで……」
玲は恵の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に自己の境界が揺らいでいる人間特有の、焦点の合わない目をしていた。
「その『知らない女』の顔を、詳しく説明できる?」
「二十代後半くらいで、長い髪で、目元が少し切れ長で……私より綺麗で。でも、笑顔がない。ずっと、こちらを見てくるんです。責めているみたいな目で」
玲は短く息を吐いた。
「報酬は?」
恵は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は少なめだった。
「これしか、今は……足りなければ、後で追加します。どうか」
玲は封筒を見下ろし、やがて小さく頷いた。
「話は聞いた。動くかどうかは、実際に鏡を見てから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」
翌日の午後。
玲は恵のアパートを訪れた。築二十年ほどの、ごく普通のワンルームだった。しかし、室内の空気はすでに重く、湿度が高い。洗面所に案内されると、普通の洗面台と鏡があるだけだった。
「映ってみて」
玲が促すと、恵は躊躇しながら鏡の前に立った。最初の数秒は、恵自身の顔が映っていた。疲れきった、普通の顔。しかし、次の瞬間、鏡の中の顔が、ゆっくりと歪んだ。
目の形が変わり、唇の厚みが変わり、髪の生え際が変わる。恵の顔が、内側から食い破られるようにして、別の女の顔に上書きされていく。女は微笑まない。ただ、冷たい目で玲の方を見返してきた。
玲は表情を変えなかった。しかし、背筋に冷たいものが走ったのを、否定はしなかった。
「……確かに、映らないな」
その夜、玲が事務所に戻ると、引き出しの古い鏡が強く反応していた。布を通してさえ冷気が漏れ、鏡の表面に、薄く女の顔が浮かんでいた。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。
「質の悪い残留だ」
調査は、四日かけて行われた。
玲は恵の交友関係、仕事関係、過去の居住地を地道に洗った。五年前に行方不明になった二十代の女性——名前は「白石綾」——の顔が、鏡に映る女と一致することがわかった。白石は表向き「失踪」として処理されていたが、実際にはすでに亡くなっており、遺体は見つかっていなかった。
共通の接点は、ほとんどなかった。しかし、ごくわずかに、恵が三年前に参加したイラストの展示会で、白石が「客として」訪れていた記録が残っていた。白石はそこで恵の作品を長く眺めていたという。
玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。引き出しの鏡が振動し、布の上から女の顔が浮かび上がる。夜中には、事務所の窓ガラスにさえ、女の顔が薄く重なることがあった。恵のもとでは、さらに悪化していた。恵の影が、女の形に近づき、声が重なり始めている。電話口で恵の声が、一瞬だけ別人の低い声に変わることもあった。
玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、白石の「顔を残したい」という強い未練が、恵を器として選んだのだと結論づけた。
五日目の夜。
玲は恵を事務所に呼び出し、近くの安全な場所に移させた。その上で、白石の最後の居場所と推定される、郊外の古いアパートへ向かった。部屋はすでに空き室で、ほこりが厚く積もっている。しかし、空気は異常に冷たく、壁に薄いシミが人の形を描いていた。
玲は部屋の中央に立ち、持ってきた恵の写真と、白石の失踪届のコピーを床に置いた。
「あなたは、もう終わっている。他人の顔を奪うな。恵の顔を、返すんだ」
即座に冷気が爆発した。壁のシミが動き、黒い影が実体めいて立ち上がる。女の顔が、部屋のあらゆる反射面——窓ガラス、玲の目、床の水たまり——に同時に映った。声が、頭蓋の内側で直接響く。
「私の顔を——返して——私を——残して——」
影が玲に飛びかかった。冷たい手が顔を掴み、強制的に「上書き」しようとしてくる。視界が歪み、玲の顔が女の顔に重なろうとする。痛みというより、存在が薄れていくような感覚。
玲は影に掴まれたまま、声を荒らげなかった。ただ、低く、明確に言った。
「残せるものなど、何もない。あなたはすでに死んでいる。他人の顔を奪っても、あなたは戻らない。終わったものを、終わったままにしておけ」
影が叫び、部屋中の反射が女の顔で埋め尽くされる。冷気が頂点に達し、視界が真っ白になりかける。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。
最後に残ったのは、ごく小さな、子供じみた声だった。
「……残してほしかった」
影が音もなく砕け、冷気が一気に引いていく。部屋の反射から、女の顔が消えた。
翌朝。
玲は恵を事務所に呼び、洗面所の鏡の前に立たせた。
恵が恐る恐る鏡を覗き込む。最初は目を閉じ、それからゆっくりと開けた。
そこに映っていたのは、疲れきった、しかし確かに恵自身の顔だった。
恵は膝から崩れ落ちそうになりながら、何度も頭を下げた。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。
事務所に戻った後。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。指先が、まだ少し冷たい。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。鏡はもう、ほとんど反応していなかった。それでも玲は、布の上から鏡を見ないようにして、引き出しを閉じた。
「顔を奪う残留ほど、質が悪い……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな顔を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




