第15話 止まらない録音と、死者の声
夜の気配が、窓の外に濃く落ちていた。
雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、弱々しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代半ばの男性だった。目が赤く、髪は寝癖のまま乱れ、頬がこけている。手元に古いカセットテープのレコーダーを抱え、イヤホンのコードを指で何度も巻きつけたり解いたりしている。人の声を聞くことを、明らかに恐れている目つきだった。
「……黒崎玲さんですか。柴田浩二です。お願いがあって、来ました」
「坐って。立ち話はしない。それと、そのレコーダー、机に置きなさい。持ったまま話すと落ち着かない」
柴田は言われるままに椅子に腰を下ろし、レコーダーを机の端に置いた。しかし、すぐにまた手を伸ばしそうになって、自分で止める。
玲は缶を机に置いた。
「拾ったテープから声がする? そういう話は、だいたい録音の劣化か、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
柴田は喉を鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。
「三週間前に、ゴミ捨て場で古いカセットテープを拾ったんです。再生すると、知らない男女の会話が入っていて……最初はただの興味でした。日常の話や、些細な言い争い。でも、次第に内容が変わってきた。私の名前を呼び始めて。私の過去を、知っているはずのないことを話し始めて。今では、電源を切っても勝手に再生が始まる。イヤホンを外しても、頭の中で音がする。夜中に、枕元で声がするんです」
玲はレコーダーを手に取り、テープを確認した。古いカセットで、ラベルは剥がれかけている。再生ボタンを押すと、最初はノイズ混じりの男女の声が流れた。普通の会話。しかし、数十秒後、男の声がはっきりと「柴田」と呼び、続けて柴田の子供時代の些細な失敗を、嘲笑うように語り始めた。
玲は再生を止めた。
「報酬は?」
柴田は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は厚くない。
「これしか、今は……どうか、止めてください」
玲は短く息を吐いた。
「話は聞いた。動くかどうかは、もう少し調べてから決める。今日は帰りなさい。このレコーダーは、一旦ここへ置いていくこと」
その夜。
玲はレコーダーを机の端に置き、いつもの缶コーヒーを飲んでいた。時計が一時を回った頃、電源を切ってあるはずのレコーダーから、小さな再生音が聞こえた。
最初はノイズ。次に、女の声。低く、湿った声。
「……聞いて……私たちの話を……」
玲が近づくと、音量が上がる。男の声が重なり、柴田の名前を繰り返し、彼の過去の罪悪感を執拗に突く内容に変わっていく。引き出しの中の古い鏡が、布の上から強く冷えた。冷気が部屋に広がり、レコーダーの周囲に薄い影が揺れた。
玲はレコーダーの電源を切り、電池を外した。それでも、ごく小さく、音が続きそうな気配が残った。
「質の悪い依り代だ」
調査は、四日かけて行われた。
玲はテープに残された声の主を特定した。十五年前に心中した夫婦——夫は三十代、妻は二十代後半——で、遺体発見現場の近くに、同じ種類のカセットテープが落ちていた記録が残っていた。表向きは「心中」として処理されていたが、実際には夫婦間の強い確執と、最後の一方的な決断があったらしい。
テープは「死後も誰かに自分たちの話を聞いてほしい」という、歪んだ未練の依り代になっていた。柴田が拾ったのは偶然ではなかった。柴田が過去に、似たような状況の人間を「面倒だから」と見捨てた経験が、残留に反応していた。
玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。電池を外しても、レコーダーから声が漏れる。鏡が振動し、冷気と共に低い声が事務所の壁に反響する。柴田の元ではさらに悪化しており、眠ると夢の中でもテープが再生され、現実でもイヤホンなしで声が直接耳元で囁くようになっていた。
玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、声の核になっている「聞いてほしい」という想いを、どう終わらせるかを考えた。
五日目の夜。
玲は柴田を一時的に安全な場所へ移し、一人で夫婦の最後の居場所——郊外の古いアパートの一室——へ向かった。部屋はすでに空き室で、ほこりが厚く積もっている。しかし、空気は異常に湿って冷たく、壁に薄い水染みが、人の形をぼんやりと描いていた。
玲は部屋の中央にレコーダーを置き、電池を戻した。即座に再生が始まる。声が部屋中に溢れ、男女の悲鳴と懇願が重なる。
「聞いて——私たちの話を——誰か——」
玲は影に向かって、淡々と話し始めた。
「もう、聞く者はいない。あなたたちの話は、十五年前に終わっている。他人の耳を借りて、繰り返すな」
声が激しく歪み、レコーダーのテープが勝手に高速で回る。悲鳴のような音が、物理的に耳を圧迫する。冷気が肌を刺し、影が天井から落ちてくるように広がる。玲の過去の些細な場面まで、声が知っているかのように突いてくる。
玲は一歩も引かなかった。声を荒らげず、同じ言葉を繰り返す。
「終わったものを、終わったままにしておけ。聞く必要はない。あなたたちは、もう届かない」
テープが限界まで張り詰めた音を立て、最後に大きく悲鳴が爆発した。次の瞬間、音がすうっと遠ざかり、レコーダーが完全に静止する。冷気が引き、部屋の湿った匂いだけが残った。
翌朝。
玲は柴田を事務所に呼び、レコーダーを返した。電池を入れ、再生ボタンを押す。ノイズだけが流れ、声はもう乗っていなかった。
「もう、再生されないはずだ。ただし、しばらくは静かな場所で休んだ方がいい。耳が、まだ残響を覚えてる可能性がある」
柴田は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。
事務所に戻った後。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。耳の奥に、まだわずかな残響が残っている気がした。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。
「声を残す残留ほど、しつこい……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな音を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




