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『裏探偵・黒崎玲の事件簿』  作者: 蒼狐


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第16話 動く影と、ついてくる私

夜の気配が、窓の外にすでに濃く落ちていた。


雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。


黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。


ドアが、小さくノックされた。


「どうぞ」


入ってきたのは、二十代後半の女性だった。目の下に濃いクマが落ち、髪は乱れ、唇の血色が悪い。入室した瞬間から、自分の足元を何度も確認する癖が出ている。人の顔を直視できず、視線が床と壁を incremental に往復していた。


「……黒崎玲さん、ですか。森優奈です。お願いがあって、来ました」


「坐って。立ち話はしない。それと、そんなに足元ばかり見るな。落ち着いてから話せ」


優奈は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、両足を椅子の脚に寄せ、影ができないように小さくなっている。


玲は缶を机に置いた。


「影が動く? そういう話は、だいたい照明の加減か、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」


優奈は喉を何度も鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。


「二週間前からです。自分の影がおかしいんです。光の方向と違う動きをする。夜中に、影だけが先に歩いていく。最初は気のせいだと思おうとしました。でも、最近は……影が私の足首を掴むんです。冷たくて、湿った感触で。引っ張られる。写真に撮ると、影の形が自分と微妙に違う。誰にも信じてもらえなくて……このままじゃ、影に連れていかれそうで」


玲は優奈の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に何かに追い立てられている人間特有の、焦点の定まらない目をしていた。


「報酬は?」


優奈は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は少なめだった。


「これしか、今は……足りなければ、後で追加します。どうか」


玲は短く息を吐いた。


「話は聞いた。動くかどうかは、実際に影を見てから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」



翌日の午後。


玲は優奈のマンションを訪れた。築十五年ほどの、ごく普通の賃貸だった。しかし、室内の空気はすでに重く、照明をつけてもどこか影が濃い。


「普通に立ってみて」


玲が促すと、優奈はリビングの中央に立った。昼間の光で、影は床に落ちている。最初は普通だった。しかし、玲が照明の角度を少し変えた瞬間、影が光の方向とは無関係に、ゆっくりと壁へ伸びた。優奈が動いていないのに、影だけが足首の位置でくねり、玲の方を向いた。


玲は表情を変えなかった。しかし、背筋に冷たいものが走ったのを、否定はしなかった。


「……確かに、動くな」


その夜、玲が事務所に戻ると、引き出しの古い鏡が強く反応していた。布を通してさえ冷気が漏れ、鏡の表面を、人の形をした影がよぎった。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。


「質の悪い残留だ」



調査は、四日かけて行われた。


玲は優奈の交友関係と、現在のマンションの過去を洗った。三年前、この部屋で一人の男性が重度の怪我を負う事故が起きていた。男性は「影に引っ張られた」と繰り返し証言したまま、意識を回復しないうちに亡くなっていた。表向きは「転倒事故」として処理されていたが、現場検証では不自然な点が複数残っていた。


優奈がこの部屋に引っ越す前、一時的に荷物を置いていた期間があった。その薄い接点が、残留に反応したらしい。


玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。鏡が冷え、影のようなものが室内を這う。優奈の元ではさらに悪化しており、夜中に影が完全に別人の形になって部屋を歩き、足首を掴む力が物理的に強くなっていた。優奈の足には、うっすらと痣のようなものができ始めていた。


玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、亡くなった男性の「一人で終わりたくない」「誰かを連れて行きたい」という想いが、影という形で優奈に取りついているのだと結論づけた。



五日目の夜。


玲は優奈を一時的に安全な場所へ移し、一人で事故現場となったマンションの近くへ向かった。現在は別の住人が入居しているため、直接部屋には入らず、共用部の非常階段で待機した。


影は、すぐに現れた。


玲の足元に落ちた影が、光の方向と無関係に伸び、くねり、実体めいて立ち上がる。最初は一人分だった影が、徐々に複数の人型に分裂し、冷たい手のようなもので玲の足首を掴んできた。感触は湿っていて、重く、引き摺り込もうとする。


「……あなたは、もう終わっている」


玲は影に掴まれたまま、声を荒らげなかった。ただ、低く、明確に言った。


「他人を連れていく権利はない。あなたは三年前に終わった。ここにいる理由がない」


影が激しく暴れ、複数の腕のようなものが玲の足と腰に絡みつく。冷気が肌を刺し、視界の端で影が顔の形を作ろうとする。引っ張る力が強くなり、玲の体が実際に数センチ動いた。


玲はそれでも動かなかった。事故の記録コピーと、当時の現場写真を影の前に置いた。


「これが、あなただ。もう、誰も連れていけない。終わったものを、終わったままにしておけ」


影が叫びのような歪みを起こし、一気に濃くなって玲に覆い被さる。全身を冷たいもので包まれ、呼吸が止まりそうになる。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。


最後に残ったのは、ごく小さな、子供じみた影の震えだった。


「……一人が、嫌だった」


影が音もなく砕け、冷気が一気に引いていく。玲の足元に落ちた影は、再びただの普通の影に戻っていた。



翌朝。


玲は優奈を事務所に呼び、窓際に立たせた。強い光の下で、優奈の影は床に落ちている。動かない。光の方向に素直に従っている。


「もう、動かないはずだ。ただし、しばらくは明るい場所で過ごした方がいい。影が、まだ残像を覚えている可能性がある」


優奈は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。



事務所に戻った後。


玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。足元に、一瞬だけ余分な影が落ちた気がした。


引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。


「影を残す残留ほど、厄介だ……」


誰に言うでもなく、呟く。


窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。


引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。


玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。


次に来る依頼が、またどんな影を運んでくるのかは、わからない。

それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。

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