第17話 甘い匂いと、呼び込む部屋
夜の気配が、窓の外にすでに濃く落ちていた。
雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、弱々しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、三十代前半の男性だった。頬がこけ、目が虚ろで、髪は脂で少し湿っている。入室した瞬間から、何度も鼻を鳴らす癖が出ていた。室内の空気を嗅ぎ分けるように、顔を微かにしかめている。
「……黒崎玲さん、ですか。浅井健です。お願いがあって、来ました」
「坐って。立ち話はしない。それと、そんなに鼻を鳴らすな。落ち着いてから話せ」
浅井は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、前のめりになったまま、時折自分の袖や指先の匂いを嗅ぐような仕草をする。
玲は缶を机に置いた。
「部屋で甘い匂いがする? そういう話は、だいたい配管か、カビか、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
浅井は喉を何度も鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。
「二週間前からです。自分の部屋で、甘い匂いがするようになったんです。花のような、腐ったような、甘くて湿った匂い。窓を全開にしても、換気扇を回しても、消えない。匂いが強くなった夜は、部屋の隅に『もう一つ部屋がある』ような感覚がする。壁の向こうに、誰かがいる気がして……呼ばれている気がする。名前を呼んでいるわけじゃないのに、来い、と誘われている。もう、限界なんです」
玲は浅井の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に何かに誘われ続けている人間特有の、焦点の合わない目をしていた。
「報酬は?」
浅井は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は厚くない。
「これしか、今は……足りなければ、後で追加します。どうか」
玲は短く息を吐いた。
「話は聞いた。動くかどうかは、実際に部屋を見てから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」
翌日の午後。
玲は浅井のアパートを訪れた。築二十年ほどの、ごく普通のワンルームだった。しかし、ドアを開けた瞬間に、甘くて湿った匂いが鼻を突いた。花の蜜のような、腐った果物のような、どこか血の甘さを含んだ匂い。換気扇を回し、窓を開けても、匂いはすぐに部屋の中央に戻ってくる。
「普通に生活してみて」
玲が促すと、浅井はリビングの端に立った。最初は普通だった。しかし、時間の経過とともに匂いが濃くなり、部屋の隅——壁と壁が接する部分——の空間が、微妙に歪んで見えた。奥行きが、実際より深く感じられる。誰かがそこに立っているような、気配だけがある。
玲は表情を変えなかった。しかし、鼻の奥に残る甘さが、不快に舌に乗ったのを否定はしなかった。
「……確かに、匂うな」
その夜、玲が事務所に戻ると、引き出しの古い鏡が強く反応していた。布を通してさえ冷気が漏れ、ごく薄く甘い匂いが事務所内に漂った。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。
「質の悪い残留だ」
調査は、四日かけて行われた。
玲は浅井の部屋の過去を洗った。五年前、この部屋で一人の女性が孤独死していた。発見までにかなりの時間がかかり、死後の変化が強かったという。女性は生前、強い「誰かに来てほしい」「一人で終わりたくない」という想いを周囲に漏らしていた。その残留が、「甘い匂い」という形で人を誘うようになっていた。
浅井が選ばれた理由は、彼自身が深い孤独を抱えていたことと、部屋に残された薄い接点だった。匂いを「不快」と感じつつも、どこかで「気になってしまう」心理が、残留に反応していた。
玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。鏡が冷え、甘い匂いが布を通して漏れる。浅井の元ではさらに悪化しており、匂いが物理的に息苦しくなり、呼ばれる感覚が明確な「来て」という意思に近づいていた。夜中に、部屋の隅に人影めいたものが立つこともあった。
玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、女性の「来てほしい」という想いが、甘い匂いで人を呼び、徐々に「こちら側」へ引き込もうとしているのだと結論づけた。
五日目の夜。
玲は浅井を一時的に安全な場所へ移し、一人で部屋に入った。ドアを閉めた瞬間、甘い匂いが爆発するように濃くなった。息を吸うたびに、甘さが喉に張りつく。部屋の隅の空間が、明確に歪む。奥行きが不自然に深くなり、そこに「存在しないはずの扉」のようなものが、影として浮かび上がった。
影が動いた。女性の形をした、薄い人影。手が、玲の方へ伸びてくる。声にはならないが、「来て」という意思が、直接頭の中に流れ込んでくる。
「……あなたは、もう終わっている」
玲は影に向かって、声を荒らげなかった。ただ、低く、明確に言った。
「他人を呼ぶな。あなたは五年前に終わった。ここにいる理由がない。一人で終わりたくなかった気持ちは、もう届かない」
影が歪み、匂いが極限まで濃くなる。甘さが腐臭に変わり、影が実体めいて玲に覆い被さろうとする。冷たい手が肩に触れ、引き込もうとする感触。視界の端で、存在しないはずの部屋が広がっていく。
玲はそれでも動かなかった。女性の孤独死に関する記録と、当時の簡単な遺品写真を影の前に置いた。
「これが、あなただ。もう、誰も呼べない。終わったものを、終わったままにしておけ」
影が激しく震え、匂いと一緒に悲鳴のようなものが爆発する。部屋中が甘い匂いで満たされ、呼吸が止まりそうになる。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。
最後に残ったのは、ごく小さな、子供じみた嗚咽のような気配だった。
「……来てほしかった」
影が音もなく砕け、匂いが一気に引いていく。部屋の隅の歪みが消え、ただの普通の壁に戻った。玲は窓を全開にし、しばらくその場に立っていた。
翌朝。
玲は浅井を事務所に呼び、短く告げた。
「もう、匂いはしないはずだ。ただし、しばらくは別の場所で休んだ方がいい。匂いが、まだ残像として残る可能性がある」
浅井は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。
事務所に戻った後。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。鼻先に、一瞬だけ甘い匂いが残った気がした。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。
「匂いを残す残留ほど、質が悪い……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな匂いを運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




