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『裏探偵・黒崎玲の事件簿』  作者: 蒼狐


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第18話 触れる手と、押し潰す重さ

夜の気配が、窓の外にすでに濃く落ちていた。


雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。


黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。


ドアが、弱々しくノックされた。


「どうぞ」


入ってきたのは、三十代半ばの男性だった。顔色が悪く、目の下に濃い影が落ちている。入室した瞬間から、何度も自分の肩や腕を払うような仕草を繰り返していた。人に背中を向けられないように、壁を背にして立っている。


「……黒崎玲さん、ですか。石川亮平です。お願いがあって、来ました」


「坐って。立ち話はしない。それと、そんなに肩を払うな。落ち着いてから話せ」


石川は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、常に周囲を警戒するように肩をすくめている。


玲は缶を机に置いた。


「触られる? 重みがのしかかる? そういう話は、だいたい血行か、睡眠麻痺か、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」


石川は喉を何度も鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。


「三週間前からです。誰もいないのに、肩や腕を触られるんです。最初は気のせいだと思っていた。布が擦れただけだ、と。でも、今は明確に『手のひら』の感触がある。冷たくて、湿っていて、指の形までわかる。夜中に胸の上に重いものがのしかかって、動けなくなる。朝起きると、肩や腕に赤い手の跡みたいな痕が残っていることがある。誰にも信じてもらえなくて……このままじゃ、押し潰されそうで」


玲は石川の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に何かに掴まれ続けている人間特有の、絶えず身体を確認する目をしていた。


「報酬は?」


石川は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は厚くない。


「これしか、今は……足りなければ、後で追加します。どうか」


玲は短く息を吐いた。


「話は聞いた。動くかどうかは、実際に感触を確認してから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」



翌日の午後。


玲は石川のアパートを訪れた。築十五年ほどの、ごく普通のワンルームだった。昼間の空気は普通に感じられたが、室内の隅の方がわずかに温度が低かった。


「普通に坐ってみて」


玲が促すと、石川はソファに腰を下ろした。最初は何も起きなかった。しかし、十分ほど経った頃、石川の表情が強張った。


「……来た」


玲が近づくと、確かに空気が重くなっていた。石川の左肩に、誰もいないのに布が沈むような痕跡が浮かぶ。玲自身も、肩に冷たい手のひらの感触を、一瞬だけ覚えた。指の一本一本が、ゆっくりと力を込めてくるような感触。


玲は表情を変えなかった。しかし、背筋に残った冷たい感触を、否定はしなかった。


「……確かに、触るな」


その夜、玲が事務所に戻ると、引き出しの古い鏡が強く反応していた。布を通してさえ冷気が漏れ、肩に一瞬だけ誰かの手が置かれたような感触が残った。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。


「質の悪い残留だ」



調査は、四日かけて行われた。


玲は石川のアパートの過去を洗った。七年前、この部屋で一人の男性が過労と持病で亡くなっていた。発見までに時間がかかり、死後硬直が進んだ状態で見つかったという。男性は生前、「誰かに押し潰される夢を見る」「楽になりたい」と周囲に漏らしており、強い閉塞感と「誰かを道連れにしたい」という歪んだ想いを残していた。


石川が選ばれた理由は、彼自身が強い疲労と将来への閉塞感を抱えていたことと、部屋に残された薄い接点だった。


玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。鏡が冷え、肩や腕に冷たい感触が残る。石川の元ではさらに悪化しており、夜中に複数の手に掴まれ、胸にのしかかる重みが物理的に呼吸を浅くさせていた。朝には、赤い手の跡のような痕が、消えないまま残ることもあった。


玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、亡くなった男性の「楽にしてあげたい」「一緒に終わりたい」という想いが、見えない手と重みという形で石川に取りついているのだと結論づけた。



五日目の夜。


玲は石川を一時的に安全な場所へ移し、一人で部屋に入った。ドアを閉めた瞬間、空気が急に重くなった。肩に、冷たい手が置かれる。一本、また一本と、指が増えていく感触。胸に、ゆっくりと重みがのしかかってくる。


「……あなたは、もう終わっている」


玲は手に掴まれたまま、声を荒らげなかった。ただ、低く、明確に言った。


「他人を押し潰すな。あなたは七年前に終わった。ここにいる理由がない。楽になりたかった気持ちは、もう届かない」


手が激しく動き、肩から腕、胸へと範囲を広げる。冷たい感触が熱を帯びた痛みに変わり、圧迫感で膝が折れそうになる。複数の手が玲の身体を押し留め、動けなくしようとする。


玲はそれでも踏みとどまった。男性の死亡記録と、当時の簡単な遺品写真を、感触の中心に差し出すように置いた。


「これが、あなただ。もう、誰も押し潰せない。終わったものを、終わったままにしておけ」


手が一気に強くなり、全身を押し潰すような圧が爆発する。呼吸が止まりそうになり、視界が暗くなる。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。


最後に残ったのは、ごく小さな、子供じみた嗚咽のような感触だった。


「……楽になりたかった」


手が音もなく消え、重みが一気に引いていく。部屋の空気が、普通の重さに戻った。玲はしばらくその場に立ち、肩に残った冷たい感触が完全に消えるのを待った。



翌朝。


玲は石川を事務所に呼び、短く告げた。


「もう、触られないはずだ。ただし、しばらくは人のいる場所で休んだ方がいい。感触が、まだ残像として残る可能性がある」


石川は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。



事務所に戻った後。


玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。肩に、一瞬だけ冷たい感触が残った気がした。


引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。


「手を残す残留ほど、質が悪い……」


誰に言うでもなく、呟く。


窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。


引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。


玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。


次に来る依頼が、またどんな手を運んでくるのかは、わからない。

それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。

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