第19話 見つめる目と、消えない視線
夜の気配が、窓の外にすでに濃く落ちていた。
雑居ビル三階の事務所は、いつものように薄暗い。古びた木製の机、壁に貼られた古い地図、ほとんど枯れた観葉植物。机の上には安い缶コーヒーが置かれ、金属の表面に薄い結露がついている。引き出しの端には、小さな青い折り紙が静かにしまってあった。
黒崎玲は椅子に深く腰を下ろし、缶を両手で包むように持っていた。苦くて薄い液体をゆっくりと口に含み、目を細める。
ドアが、弱々しくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、二十代後半の女性だった。目が充血し、まばたきの回数が明らかに多い。髪は乱れ、入室した瞬間から何度も後ろを確認する癖が出ている。人の視線を極端に怖がるように、壁を背にして小さく立っていた。
「……黒崎玲さん、ですか。藤井彩花です。お願いがあって、来ました」
「坐って。立ち話はしない。それと、そんなに後ろばかり見るな。落ち着いてから話せ」
彩花は言われるままに椅子に腰を下ろした。しかし、背もたれには寄りかからず、常に周囲を警戒するように肩をすくめ、視線を泳がせている。
玲は缶を机に置いた。
「見られている感覚? そういう話は、だいたいストレスか、睡眠不足か、精神的なもので終わる。それでもいいなら話を聞く。期待はしないで」
彩花は喉を何度も鳴らしてから、掠れた声で話し始めた。
「二週間前からです。誰もいない場所で、『見られている』感覚がするんです。最初は気のせいだと思っていた。人混みの残像だ、と。でも、今は明確に複数の視線を感じる。夜中に天井や壁から、目がこちらを見ている気がして、眠れない。最近は、鏡や窓ガラスに一瞬だけ『目だけ』が映ることがある。まぶたの裏にも、目が残る。誰にも信じてもらえなくて……このままじゃ、視線に潰されそうで」
玲は彩花の顔をじっと見た。虚偽を言っているようには見えなかった。ただ、本当に何かに監視され続けている人間特有の、絶えず逃げ場を探す目をしていた。
「報酬は?」
彩花は震える手で封筒を取り出し、机に置いた。中身は厚くない。
「これしか、今は……足りなければ、後で追加します。どうか」
玲は短く息を吐いた。
「話は聞いた。動くかどうかは、実際に視線を感じてから決める。今日は一旦帰りなさい。連絡する」
翌日の午後。
玲は彩花のマンションを訪れた。築二十年ほどの、ごく普通のワンルームだった。昼間の空気は普通に感じられたが、室内の隅の方がわずかに張り詰めていた。
「普通に立ってみて」
玲が促すと、彩花はリビングの中央に立った。最初は何も起きなかった。しかし、十分ほど経った頃、彩花の表情が強張った。
「……来た」
玲が近づくと、確かに空気が変わっていた。背中に、複数の視線が集中するような圧を感じる。鏡に近づくと、一瞬だけ、鏡の表面に「目だけ」が重なって映った。白目が少なく、黒目が強い、感情のない目。彩花の目ではなく、別の誰かの目だ。
玲は表情を変えなかった。しかし、後頭部に残った視線の感触を、否定はしなかった。
「……確かに、見るな」
その夜、玲が事務所に戻ると、引き出しの古い鏡が強く反応していた。布を通してさえ冷気が漏れ、鏡の表面に無数の目が薄く浮かぶ。玲は布をきつく結び直しながら、小さく舌打ちをした。
「質の悪い残留だ」
調査は、四日かけて行われた。
玲は彩花のマンションの過去を洗った。八年前、この部屋で一人の女性が自殺していた。女性は生前、「常に誰かに見られている」「目が離れてくれない」と強く訴えており、周囲から「被害妄想」として処理されていた。死後、部屋には「見返してほしい」「一人で見られたくない」という強い想いが残留していた。
彩花が選ばれた理由は、彼女自身が他人の視線を過剰に気にする性格だったことと、部屋に残された薄い接点だった。
玲が事務所に戻るたびに、怪異は強くなった。鏡が冷え、無数の目が布の上から浮かび上がる。彩花の元ではさらに悪化しており、夜中に天井や壁から直接目が現れ、視線が物理的な圧迫感を伴うようになっていた。彩花の視界に、まぶたを閉じても目が残るようになっていた。
玲は淡々と事実を積み重ねた。感情的にはならない。ただ、亡くなった女性の「見返してほしい」「自分だけが見られるのは嫌だ」という想いが、無数の目という形で彩花に取りついているのだと結論づけた。
五日目の夜。
玲は彩花を一時的に安全な場所へ移し、一人で部屋に入った。ドアを閉めた瞬間、空気が急に張り詰めた。天井から、壁から、窓ガラスから、無数の目が現れる。黒目だけが、一斉に玲の方を向いた。視線の圧が、物理的に肩と後頭部を押し潰すようにのしかかる。
「……あなたは、もう終わっている」
玲は視線に晒されたまま、声を荒らげなかった。ただ、低く、明確に言った。
「他人を見るな。見返される必要もない。あなたは八年前に終わった。ここにいる理由がない」
目が激しく増殖し、部屋中が視線で埋め尽くされる。冷たい圧が強まり、視界が目のイメージで支配されそうになる。玲の過去の些細な場面まで、見透かされているような感覚が襲ってくる。
玲はそれでも動かなかった。女性の死亡記録と、当時の簡単な遺品写真を、視線の中心に差し出すように置いた。
「これが、あなただ。もう、誰も見る必要はない。終わったものを、終わったままにしておけ」
目が一気に増え、圧が頂点に達する。呼吸が浅くなり、視界が真っ白になりかける。しかし、玲が同じ言葉を、感情を乗せずに繰り返し続けるうちに、徐々に勢いが弱まっていった。
最後に残ったのは、ごく小さな、子供じみた視線の揺れだった。
「……見返してほしかった」
目が音もなく消え、視線の圧が一気に引いていく。部屋の空気が、普通の重さに戻った。玲はしばらくその場に立ち、後頭部に残った感触が完全に消えるのを待った。
翌朝。
玲は彩花を事務所に呼び、短く告げた。
「もう、見られないはずだ。ただし、しばらくは人の少ない場所で休んだ方がいい。視線が、まだ残像として残る可能性がある」
彩花は何度も頭を下げ、泣きそうな顔で礼を言った。玲は「報酬は振込で」とだけ返し、深くは説明しなかった。
事務所に戻った後。
玲は新しい缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦くて薄い。いつもの味だ。背中に、一瞬だけ視線を感じた気がした。
引き出しを開け、古い鏡の布をきつく、二重に結び直す。
「目を残す残留ほど、質が悪い……」
誰に言うでもなく、呟く。
窓の外で風が吹いた。枯れた観葉植物の葉が、乾いた音を立てて揺れる。古い地図が、微かにめくれた。
引き出しの端から、青い折り紙の角が少しだけ見えていた。
玲は缶を机に置き、椅子の背もたれに体を預けた。
次に来る依頼が、またどんな視線を運んでくるのかは、わからない。
それでも彼女は、いつものように、静かに次のノックを待っていた。




