003 挨拶のまほう
「あ、あぁ……? なんだぁ、こりゃあ」
困惑に満ちた野太い声と共に、草むらを掻き分けて人影が現れた。
悠馬は「ずいぶんと狼っぽいな」と、その直感的な容姿を見つめる。
――瞬間
またしても彼の脳の受容体を刺激するように、見知らぬ情報が脳内へと追加された。
(――『獣人族』。
狼タイプ。高い身体能力。
人道的なコミュニケーションが可能――)
「……なるほど」
悠馬は心の中でそっと戦慄した。
どうやら新しいものを見るたびに、この外部記憶の自動インストールが発動するらしい。
脳への負荷を想像するとあまり歓迎したくはない、ありがた迷惑な機能だった。
とはいえ、目の前の狼男さんが友好的かどうかは、この表面上のデータだけでは判別できない。
彼がもし好戦的な野盗のような輩で、問答無用に襲いかかってくるようであれば――その時は、先ほどの森林イタチたちと同様に『お休みいただく』しかない。
悠馬はできる限り自然体を装うためと、危険がないことを証明できるように両手を軽くあげる。
ただし、心の内ではいつでも先ほどと同じように処方を押し付けられるように意識を集中させた。
同時に、やるべきことがある。
「あ……どうも。こんにちは……」
挨拶だ。
挨拶とは、不条理な未知からの脱却。
そして、こちらが理性と意思疎通の能力を持った『社会的な存在』であることの最大の証明に他ならない。
問題は、このあからさまな日本語が、この国籍すら超越した獣人という存在に対して通じるものか甚だ現実的ではないことだが。
最悪、ジェスチャーで補えばいい。
そう考えたときだった。
「あ、あァ?……えーっと、こんにちは……?」
狼のお兄さん――もとい、屈強な獣人の男は、完全に面食らったように戸惑いの声を漏らした。
彼は目の前に転がるイタチの山と、あまりに場違いな白衣の青年の挨拶に、完全に脳の処理が追いついていないらしい。
悠馬はこの際、なぜ日本語というマイナー言語が通じるのかとか、挨拶の形式が共通している謎とかは、すべて思考の隅へ放り投げることにした。
なんと言ってもこれは明晰夢なのだ。
あげく、外から謎の記憶が降ってくる世界なのだから、いちいち突っ込んでいたらキリがない。
ここは一旦「そういうもの」だと納得して、身元の安全を確保のが最優先だ。
全てが落ち着いてから考えればいいんだ。
かくして、悠馬の奇妙でおだやかな異世界生活が、ここに幕を開けようとしていた。
静海悠馬。
人呼んで、街の小さなお医者さま『眠りの癒し手ユーマ先生』。
彼は、世界を救いもしなければ、変えもしない。
ただ、これまで通りに医師であることに拘り続ける。
これはただ診療所のドアを叩き、頼ってきてくれた目の前の人の手を、静かに取り続けた――。
そんな、とある臆病で、ごく平凡で、呑気で。
そして、誰よりも隣人を救おうと駆け抜けた、ただのお医者さんの物語である。




