002 身に余る力
状況を分析すべく、悠馬は眼鏡の位置を直しながら周囲を見渡した。
見渡す限りの巨木。
生い茂る未知の植物。
青々とした木々からこぼれ落ちる、冷たく新鮮な空気。
深呼吸すると、肺の奥まで澄んだ香りが満ちる。
……それ以外の情報は、文字通り皆無だった。
「……おはようございます。遭難です。そうなんです……なんてね」
誰も聞いてないことをいいことに、誰もが思い浮かぶつまらない冗談をひとつまみする。
焦ってはいけないからこその、自身を落ち着かせるための小粋なジョークというやつだ。
とにかく、行動あるのみだろう。
そう判断して悠馬はひとまず歩き出そうと足を浮かせた。
その瞬間だった。
草むらが大きく揺れ、ぎらつく二つの眼光――巨大な獣の影が姿を現す。
その姿を認めた瞬間だった。
ゾワリと、頭の奥に強烈な違和感が走った。
自らの経験にはない、全く見知らぬ記憶が、脳内へ強引に濁流となって流れ込んでくる。
(――『森林イタチ』。
獰猛。群行性。
強靭な爪を持ち、人間を一撃で引き裂く危険な魔獣――)
「っ……あ……!?」
脳に文字情報を直接書き換えられるような初めての精神的ストレスに、悠馬は激しい不快感を覚えて顔を顰めた。
だが、驚いたのはそれだけではない。
濁流の底から、その獰猛な魔獣に『抗うための、別の力』の記憶が、膨大な情報量となって浮かび上がってきたのだ。
「う、ぐ……ッ!」
その情報の奔流に脳が過熱し、思わず苦悶の声が漏れる。
過酷な野生に生きる魔獣は、その隙を見逃さない。
森林イタチが鋭い爪を剥き出しにし、悠馬の喉元めがけて一直線に飛び掛かる。
死の質量が迫る中、悠馬の精神と思考演算能力は、医師としての本能で限界まで加速した。
(これは……奇跡?
いや、違う。
この形、僕が見慣れた領域だ。
そのまま受け取るな。出力方法を変えないと。
イメージに相応しいのは――)
適切なイメージは、『処方』。
これがしっくりきた。
襲い来る暴力に対し、悠馬はただ、診断の結果を押し付けるように。
目の前の脅威の脳内受容体へ向けて、その未知の力を解き放った。
「――おやすみ」
瞬間。空中で牙を剥いていた森林イタチの全身から、文字通り全ての『力』が消失し、弛緩する。
ズサァァッ!
投げ出された死を賜一撃は、ただの肉の塊となって悠馬の横を無情に駆け抜ける。
魔獣はそのまま地面へ無様に滑り込み、倒れ伏した。
「ガ、グル……?」
あまりにも急激な変化に、草むらに潜んでいたイタチの群れが動揺し、戸惑いの声を上げた。
自分達の群れのリーダー格がピクリとも動かない。
だが、死んではいない。
ただ、信じられないほど気持ちよさそうな寝息を立てて、無意識の向こう側の深淵に落ちているだけだ。
その様子と僕を交互に見た魔獣たちは、仲間が『眠らされた』のだと本能で理解した。
あまりに理解できない敵の存在に、群れが恐怖を塗りつぶすように、次なる個体をユーマへと飛びかからせる。
怯えからの無謀を見抜く医者にとって、後は流れ作業だ。
「……はい、次。あんたも自律神経が乱れてる。一晩寝なさい」
悠馬は冷徹に、淡々と、迫り来る魔獣たちへ『適切な処方』を繰り返した。
とびかかる仲間たちがバタバタと、まるで吸い込まれるように芝生へ転がり、泥のように眠りこけていく。
その圧倒的かつ静謐な暴力を前に、残された数匹の森林イタチたちは完全に戦意を喪失した。
戦えるものを失った彼らは、たまらず恐怖に尾を巻き、股にはさみ、我先に森の奥へと去っていく。
しんと静まり返った森。
悠馬が処方を押し付けた魔獣たちの寝息だけが風に溶けていく。
危機が去ったことを確認し、悠馬は大きく息を吐き出すと、自分の手のひらをじっと見つめた。
脳の受容体を完璧に掌握し、電気信号を遮断した、バグのような残響がまだそこにある。
「……身に余るなぁ、これ」
まるで他人事のように。
悠馬は、自分の手にかかった『やばい力』を、どこか冷めた目で診断するのだった。




