001 Hellow World
鼻腔をくすぐるのは、濃く湿った草の香りと、夜明け前の土の匂い。
背中に伝わるのは、野生の芝生の柔らかさ。
水気を含んだ繊維が、ゆっくりと体温に馴染んでいく。
「……ええ……?」
開いた口から漏れた声は、本人が我ながら情けないと思うほどの困惑が満ちていた。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない巨木が立ち並ぶ、深い緑の天井。
枝葉の隙間からこぼれる光は、やけに粒が大きく、チカチカと目の奥を刺した。
青年――静海悠馬は、仰向けの姿勢のまま、自分の右手を顔の前に掲げた。
グッと握り、パッと開く。
皮膚の突っ張り、関節の動き、すべてが滑らかだ。
今度は容赦なく自分の頬をつねってみる。
「……痛い。ちゃんと痛いな」
どうやら、現実のようだ。
いや、そう結論づけるには、彼の脳内にある『直前の記憶』と目の前の光景が違いすぎていた。
(昨日、僕は確かに自分の部屋のベッドに入って眠りについたはずだ。
そこから一歩も動いていない記憶は100%正しい)
自慢のオーダーメイドのベッド。硬さ調整にこだわり抜いた逸品。
睡眠専門医としての矜持でもあり、医者の不養生と言われないための最低限の自衛でもある。
その寝心地を間違えるはずがない。
「まあ、たとえ記憶違いでも森で遭難してるのはおかしいもんなぁ」
静海悠馬は、都内で小さなクリニックを営む、28歳の睡眠診療の専門医だ。
日々、患者の不眠とメンタルケアに向き合い、快適な眠りと健やかな朝を提供することに生きがいを感じている、ごく普通の開業医である。
「……なるほど。
とりあえずこれは明晰夢と仮定したほうがよさそうだ。
これほど五感がはっきりした高解像度の夢が存在するとは。
人間の脳の神秘、実に興味深い」
白衣を羽織ったままの姿で、悠馬はのそりと起き上がった。
「汚れも皴もない……か」
眠りから覚めたばかりなのに、普段から愛用している眼鏡も白衣も揃っている。
夢とはいえ、いつもの恰好でいられるのは冷静でいられるなと思った。
中指で眼鏡の位置を整えながら、彼は深く息を吸った。
悠馬は比較的、楽観的な思考でよかったと安堵しながら、この「リアルすぎる夢」を分析し始めるのだった。




