第5話 眼鏡
それから何日か、和田は同じ時刻に浜へ行った。
葵も一緒に行った。
宿の奥の狭い部屋には、まだ慣れなかった。朝になるたび、葵は見慣れない天井を見上げて、ここが自分の部屋ではないことを思い出した。けれど和田が廊下の向こうから声をかけてくると、少しだけ息がしやすくなった。
今日は行きますか。
和田は毎朝そう聞いた。
どこへ、とは言わなかった。
葵も、はい、と答えた。
掛茶屋へ行けば、あの人が来る。
和田はそれを期待していた。
葵はそれを知っていた。
先生は、一定の時刻に現れた。
葵は心の中でだけ、そう呼んだ。
口に出す時は、あの人、としか言えなかった。和田もまだ、先生とは呼んでいない。名前も知らない。宿も知らない。ただ海辺に現れて、海に入り、また去っていく人だった。
西洋人は、もう姿を見せなかった。
あの人はいつも一人だった。
周囲がどれほど賑やかでも、その人はほとんど注意を払わないように見えた。掛茶屋の女の声、子供のはしゃぐ声、海から上がった男たちの笑い声。そのどれにも目を留めず、一定の時刻に超然として来て、また超然として帰っていく。
和田は何度も話しかける機会を探しているようだった。
けれど、物を言い掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起こらなかった。
先生は非社交的だった。
その言葉が、葵の頭に浮かんだ。
教科書の中で読んだ言葉が、目の前の人の動きにぴたりと重なる。そのたびに葵は、原作通りに進んでいるのだと安心した。
けれど、その安心は少し苦かった。
和田は日に日に、あの人を見る目を変えていった。
最初は珍しい西洋人の連れとして見ていた。次には、どこかで会ったような気がする人として見ていた。今はもう、その人が現れる前から、浜の方を気にしている。
葵はそれを見るたび、胸の奥に小さな寂しさを覚えた。
昨夜も、その前の夜も、和田は葵の部屋の外に茶を置いてくれた。宿の女将に葵のことを尋ねられると、困りながらも答えてくれた。葵がこの時代のことを知らずに戸惑るたび、深く聞かずに助けてくれた。
その和田の視線が、浜ではあの人へ向かう。
それは原作通りだった。
原作通りなのに、葵は少しだけ置いていかれるような気がした。
ある日のことだった。
先生は例の通り、海から上がってきた。
白っぽい浴衣が、いつもの台のあたりに置かれている。先生がそれを着ようとした時、どうしたわけか、浴衣に砂がいっぱいついていた。
葵は息を止めた。
来る。
そう思った。
先生は砂を落とすために、後ろ向きになって浴衣を二、三度振った。
ぱらぱらと砂が落ちる。
その拍子に、着物の下に置いてあった眼鏡が、板の隙間から下へ落ちた。
小さな音だった。
けれど葵には、波の音よりはっきり聞こえた。
先生は白絣の上に兵児帯を締めてから、眼鏡がないことに気づいたらしい。急にあたりを探し始めた。
和田が動こうとした。
その瞬間、葵の身体が先に動いた。
考えるより早かった。
葵は床几の下へ身を屈め、板の隙間の下へ手を伸ばした。どこに落ちたか、分かっていた。分かっていたから、迷わずそこへ手が行ってしまった。
指先に、細い金属の感触が触れた。
拾った瞬間、葵は息を止めた。
しまった。
そう思った。
これは、和田の場面だった。
ここで和田が眼鏡を拾うはずだった。
その小さな出来事から、和田とあの人の関係が始まるはずだった。
葵は知っていた。
知っていたのに、知っていたからこそ、先に動いてしまった。
「ありました」
声は、葵の口から出ていた。
葵の手には眼鏡があった。
和田が、すぐ横で動きを止めていた。
葵はその視線を感じた。
驚き。
それから、どうしてそこにあると分かったのか、という疑問。
葵は眼鏡を持ったまま、顔を上げた。
このまま渡してはいけない。
遅れてそう思った。
葵はとっさに、眼鏡を和田の方へ差し出しかけた。
「和田さん」
和田が手を伸ばすより先に、先生の声がした。
先生は葵を見ていた。
葵は、初めてその人の顔を近くで見た気がした。
海から上がったばかりの湿った髪。日に焼けすぎていない顔。静かな目。驚いているようでいて、どこか遠い。
その目に、落とした物を拾われた驚きとは別のものが浮かんだ。
先生は眼鏡を受け取る前に、ほんの少しだけ間を置いた。
「あなたは」
そこまで言って、言葉を切った。
葵の胸が強く鳴った。
先生は何を言おうとしたのだろう。
知っているのか。
知らないのか。
そのどちらも、葵には怖かった。
「有難う」
先生はそう言った。
葵は、和田へ渡しかけた眼鏡を戻すこともできず、そのまま先生へ差し出した。
先生の指が、葵の指先に触れないぎりぎりのところで眼鏡を受け取る。
そのわずかな距離が、かえって葵には苦しかった。
「落ちた音がしたものですから」
和田が、少し遅れてそう言った。
自分も探そうとしていたのだと、言い添えたかったのかもしれない。あるいは、葵だけがその場所を知っていたように見えたことを、言葉で薄めようとしたのかもしれない。
先生は和田を見た。
「君も、この茶屋を使っているのですか」
「はい」
和田は急に姿勢を正した。
「しばらく鎌倉におります」
「そうですか」
先生は眼鏡をかけ直した。
「海へは、よく入るのですか」
「毎日のように」
「では、また海で会うかもしれませんね」
先生はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは誘いというほどのものではなかった。
けれど和田の顔には、確かに何かが灯った。
先生は何事もなかったように身支度を整えた。
和田はまだ、葵の横に立っていた。
原作通りではなかった。
それだけが、葵の中で冷たく残った。
先生は去っていった。
葵は、その背中を見送った。
和田も同じ方を見ていた。
けれど和田の沈黙は、昨日までのものとは違っていた。
あの人への興味だけではない。
葵への疑問が、そこに混じっていた。
先生が去ったあと、和田はしばらく眼鏡の落ちたあたりを見ていた。
「小林さん」
彼は小さく言った。
「はい」
「まるで、落ちた場所を知っていたようでした」
葵の心臓が小さく跳ねた。
「そんなことは」
「ありませんか」
和田の声は責めていなかった。けれど、ただ不思議がっているだけでもなかった。
葵は答えられなかった。
和田はそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「でも」
葵は、沈黙に耐えきれずに口を開いた。
「明日は、きっと」
そこまで言って、息を止めた。
明日は、きっと一緒に泳げます。
そう言いかけた。
言ってはいけない。
まだ起きていないことを、葵が知っているように言ってはいけない。
和田が葵を見ていた。
「明日は?」
「……また、会えるかもしれません」
葵は言い直した。
言い直したところで、遅かったかもしれない。
和田の目には、さっきより濃い疑問が残っていた。
葵は、原作が進んだことに安心できなかった。
小さな出来事を、一つずらしてしまった。
たった眼鏡一つ。
けれど、それを拾う手が違った。
その違いを、和田は見ている。
物語を知っていることは、隠せると思っていた。
でも、知っているからこそ、葵は先に動いてしまう。
そのことを、初めて思い知らされた。




