表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/17

第5話 眼鏡

 それから何日か、和田は同じ時刻に浜へ行った。


 葵も一緒に行った。


 宿の奥の狭い部屋には、まだ慣れなかった。朝になるたび、葵は見慣れない天井を見上げて、ここが自分の部屋ではないことを思い出した。けれど和田が廊下の向こうから声をかけてくると、少しだけ息がしやすくなった。


 今日は行きますか。


 和田は毎朝そう聞いた。


 どこへ、とは言わなかった。


 葵も、はい、と答えた。


 掛茶屋へ行けば、あの人が来る。


 和田はそれを期待していた。


 葵はそれを知っていた。


 先生は、一定の時刻に現れた。


 葵は心の中でだけ、そう呼んだ。


 口に出す時は、あの人、としか言えなかった。和田もまだ、先生とは呼んでいない。名前も知らない。宿も知らない。ただ海辺に現れて、海に入り、また去っていく人だった。


 西洋人は、もう姿を見せなかった。


 あの人はいつも一人だった。


 周囲がどれほど賑やかでも、その人はほとんど注意を払わないように見えた。掛茶屋の女の声、子供のはしゃぐ声、海から上がった男たちの笑い声。そのどれにも目を留めず、一定の時刻に超然として来て、また超然として帰っていく。


 和田は何度も話しかける機会を探しているようだった。


 けれど、物を言い掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起こらなかった。


 先生は非社交的だった。


 その言葉が、葵の頭に浮かんだ。


 教科書の中で読んだ言葉が、目の前の人の動きにぴたりと重なる。そのたびに葵は、原作通りに進んでいるのだと安心した。


 けれど、その安心は少し苦かった。


 和田は日に日に、あの人を見る目を変えていった。


 最初は珍しい西洋人の連れとして見ていた。次には、どこかで会ったような気がする人として見ていた。今はもう、その人が現れる前から、浜の方を気にしている。


 葵はそれを見るたび、胸の奥に小さな寂しさを覚えた。


 昨夜も、その前の夜も、和田は葵の部屋の外に茶を置いてくれた。宿の女将に葵のことを尋ねられると、困りながらも答えてくれた。葵がこの時代のことを知らずに戸惑るたび、深く聞かずに助けてくれた。


 その和田の視線が、浜ではあの人へ向かう。


 それは原作通りだった。


 原作通りなのに、葵は少しだけ置いていかれるような気がした。


 ある日のことだった。


 先生は例の通り、海から上がってきた。


 白っぽい浴衣が、いつもの台のあたりに置かれている。先生がそれを着ようとした時、どうしたわけか、浴衣に砂がいっぱいついていた。


 葵は息を止めた。


 来る。


 そう思った。


 先生は砂を落とすために、後ろ向きになって浴衣を二、三度振った。


 ぱらぱらと砂が落ちる。


 その拍子に、着物の下に置いてあった眼鏡が、板の隙間から下へ落ちた。


 小さな音だった。


 けれど葵には、波の音よりはっきり聞こえた。


 先生は白絣の上に兵児帯を締めてから、眼鏡がないことに気づいたらしい。急にあたりを探し始めた。


 和田が動こうとした。


 その瞬間、葵の身体が先に動いた。


 考えるより早かった。


 葵は床几の下へ身を屈め、板の隙間の下へ手を伸ばした。どこに落ちたか、分かっていた。分かっていたから、迷わずそこへ手が行ってしまった。


 指先に、細い金属の感触が触れた。


 拾った瞬間、葵は息を止めた。


 しまった。


 そう思った。


 これは、和田の場面だった。


 ここで和田が眼鏡を拾うはずだった。


 その小さな出来事から、和田とあの人の関係が始まるはずだった。


 葵は知っていた。


 知っていたのに、知っていたからこそ、先に動いてしまった。


「ありました」


 声は、葵の口から出ていた。


 葵の手には眼鏡があった。


 和田が、すぐ横で動きを止めていた。


 葵はその視線を感じた。


 驚き。


 それから、どうしてそこにあると分かったのか、という疑問。


 葵は眼鏡を持ったまま、顔を上げた。


 このまま渡してはいけない。


 遅れてそう思った。


 葵はとっさに、眼鏡を和田の方へ差し出しかけた。


「和田さん」


 和田が手を伸ばすより先に、先生の声がした。


 先生は葵を見ていた。


 葵は、初めてその人の顔を近くで見た気がした。


 海から上がったばかりの湿った髪。日に焼けすぎていない顔。静かな目。驚いているようでいて、どこか遠い。


 その目に、落とした物を拾われた驚きとは別のものが浮かんだ。


 先生は眼鏡を受け取る前に、ほんの少しだけ間を置いた。


「あなたは」


 そこまで言って、言葉を切った。


 葵の胸が強く鳴った。


 先生は何を言おうとしたのだろう。


 知っているのか。


 知らないのか。


 そのどちらも、葵には怖かった。


「有難う」


 先生はそう言った。


 葵は、和田へ渡しかけた眼鏡を戻すこともできず、そのまま先生へ差し出した。


 先生の指が、葵の指先に触れないぎりぎりのところで眼鏡を受け取る。


 そのわずかな距離が、かえって葵には苦しかった。


「落ちた音がしたものですから」


 和田が、少し遅れてそう言った。


 自分も探そうとしていたのだと、言い添えたかったのかもしれない。あるいは、葵だけがその場所を知っていたように見えたことを、言葉で薄めようとしたのかもしれない。


 先生は和田を見た。


「君も、この茶屋を使っているのですか」


「はい」


 和田は急に姿勢を正した。


「しばらく鎌倉におります」


「そうですか」


 先生は眼鏡をかけ直した。


「海へは、よく入るのですか」


「毎日のように」


「では、また海で会うかもしれませんね」


 先生はそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 それは誘いというほどのものではなかった。


 けれど和田の顔には、確かに何かが灯った。


 先生は何事もなかったように身支度を整えた。


 和田はまだ、葵の横に立っていた。


 原作通りではなかった。


 それだけが、葵の中で冷たく残った。


 先生は去っていった。


 葵は、その背中を見送った。


 和田も同じ方を見ていた。


 けれど和田の沈黙は、昨日までのものとは違っていた。


 あの人への興味だけではない。


 葵への疑問が、そこに混じっていた。


 先生が去ったあと、和田はしばらく眼鏡の落ちたあたりを見ていた。


「小林さん」


 彼は小さく言った。


「はい」


「まるで、落ちた場所を知っていたようでした」


 葵の心臓が小さく跳ねた。


「そんなことは」


「ありませんか」


 和田の声は責めていなかった。けれど、ただ不思議がっているだけでもなかった。


 葵は答えられなかった。


 和田はそれ以上聞かなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せた。


「でも」


 葵は、沈黙に耐えきれずに口を開いた。


「明日は、きっと」


 そこまで言って、息を止めた。


 明日は、きっと一緒に泳げます。


 そう言いかけた。


 言ってはいけない。


 まだ起きていないことを、葵が知っているように言ってはいけない。


 和田が葵を見ていた。


「明日は?」


「……また、会えるかもしれません」


 葵は言い直した。


 言い直したところで、遅かったかもしれない。


 和田の目には、さっきより濃い疑問が残っていた。


 葵は、原作が進んだことに安心できなかった。


 小さな出来事を、一つずらしてしまった。


 たった眼鏡一つ。


 けれど、それを拾う手が違った。


 その違いを、和田は見ている。


 物語を知っていることは、隠せると思っていた。


 でも、知っているからこそ、葵は先に動いてしまう。


 そのことを、初めて思い知らされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ