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第4話 奥の狭い部屋

 和田の宿は、海から近かった。


 けれど、鎌倉の賑やかな方角からは少し外れていた。掛茶屋を離れると、人の声はすぐに薄くなった。潮の匂いだけが残り、古びた家々の間を細い道が続いている。砂の混じった道を歩くたび、葵の靴の中で小さな音がした。


 和田は少し前を歩きながら、時々振り返った。


「歩きにくくありませんか」


「大丈夫です」


 葵はそう答えたが、実際には歩きにくかった。制服のスカートは風に煽られ、革靴は砂に沈み、鞄の持ち手は汗で滑った。教室からそのまま抜け出した服装が、この土地ではどこまでも浮いている。


 道の途中で、何人かが葵を見た。


 水兵の服のようにも見える紺の襟。白い線。短い靴下。葵にとっては当たり前だったものが、この時代では一つも当たり前ではなかった。


 和田はその視線に気づくたび、歩く速さを少し緩めた。


 守ろうとしてくれているのだと分かった。


 それがありがたくて、同時に申し訳なかった。


 宿は、古い木造の建物だった。


 玄関に入ると、畳と潮と古い木の匂いがした。葵は思わず立ち止まった。電灯の明るさはない。薄暗い土間、磨り減った上がり框、奥へ続く廊下。どこかで障子が開く音がした。


 宿の女将らしい人が出てきた。


 女将はまず和田を見て、それから葵を見た。目が、葵の襟、鞄、靴の順に動いた。


「この方が」


「はい。先ほど使いをお願いした方です」


 和田は丁寧に頭を下げた。


「事情があって、一部屋お借りできればと思いまして」


「ご親類で」


 女将が尋ねた。


 和田は一瞬だけ言葉に迷った。


 葵は息を止めた。


「遠い知り合いの方です」


 和田はそう答えた。


 嘘ではない。けれど本当でもない。


 女将の顔には疑いが残っていた。それでも、和田が先に部屋代を払うと言うと、奥の狭い部屋なら空いていると答えた。


 葵は何度も頭を下げた。


「ご迷惑をおかけします」


 女将はまだ不審そうだったが、奥の部屋へ案内するよう女中に声をかけた。泊まる場所があるという事実だけで、葵には十分すぎるほど大きかった。


 通された部屋は、本当に奥にあった。


 六畳もない。畳は少し日に焼けていて、壁際に薄い布団が畳まれている。小さな机と、行灯のような灯り。窓を開けると、遠くに波の音が聞こえた。


 葵は部屋の真ん中に立ったまま、動けなかった。


 ここで眠る。


 そう思った途端、急に心細さが押し寄せてきた。


 教室はどこにもない。


 自分の机もない。


 スマートフォンは圏外どころか、この世界に存在してはいけないものだった。財布の中の硬貨も紙幣も、ただの説明できない紙と金属になる。学生証も、定期券も、葵が葵であることをこの時代に証明してくれない。


 原作を知っている。


 先生の結末を知っている。


 Kの死を知っている。


 静が知らないまま残されることを知っている。


 それなのに、今の葵は、布団の敷き方も、水をどこで汲むのかも、夜に用を足す場所も分からなかった。


 知っている物語の中で、葵は何も知らない人間だった。


「小林さん」


 廊下から和田の声がした。


 葵は慌てて返事をした。


「はい」


「入ってもよろしいですか」


 葵は少し迷った。


 この時代で、若い男を部屋に入れることがどう見られるのか分からない。


 その迷いを察したのか、和田はすぐに言った。


「ここへ置いておきます。戸の外です」


 障子の外に、盆が置かれた。茶と、握り飯が二つ。それから、小さな包みに入った干菓子のようなもの。


「夕飯というほどではありませんが、何も召し上がらないよりは」


 葵は障子を少しだけ開けた。


 廊下に立つ和田は、目を合わせるとすぐに少し下を向いた。


「ありがとうございます」


「いいえ。むしろ、これくらいしかできません」


 その言い方があまりに真面目で、葵は胸が痛くなった。


「和田さん」


「はい」


「どうして、こんなにしてくれるんですか」


 和田は答えに困ったようにした。


「浜に、あなたを置いておくわけにはいかないと思いました」


「それだけですか」


 聞いてから、葵は自分で驚いた。


 どうしてそんなことを聞いたのだろう。


 和田も少し驚いた顔をした。それから、困ったように笑った。


「それだけだと思います。今は」


 今は。


 その言葉が、葵の中に残った。


 和田は、葵の手元を見た。


「怖いですか」


 葵はすぐに首を振ろうとした。


 けれど、できなかった。


「怖いです」


 声にすると、急に涙が出そうになった。


「帰り方が分からないんです」


 言ってしまってから、葵は唇を押さえた。


 和田は深く聞かなかった。


 どこへ、とも、なぜ、とも聞かなかった。ただ、少しだけ表情を引き締めた。


「今夜は休みましょう」


「でも」


「明日になれば、何か考えられるかもしれません」


 そんな保証はどこにもない。


 けれど、その言葉は葵を落ち着かせるために言われたものだと分かった。


 和田は廊下の向こうへ戻ろうとして、一度だけ振り返った。


「何かあれば、女中さんを呼んでください。私も近くの部屋にいます」


「はい」


 和田の足音が遠ざかった。


 葵は障子を閉めた。


 握り飯は温かくなかった。それでも、米の匂いがした。葵は一口食べて、ようやく自分がひどく空腹だったことに気づいた。


 夜になると、宿はさらに静かになった。


 遠くで波が聞こえる。廊下を誰かが歩く音。知らない部屋の知らない布団。薄暗い灯り。葵は布団に入ったが、なかなか眠れなかった。


 先生の背中。


 和田の声。


 教室の白い蛍光灯。


 それらが頭の中で混ざった。


 この世界に知った人はまだいない。


 そう思いかけて、葵は少しだけ考え直した。


 和田がいる。


 知っていると言えるほどではない。けれど、今夜の葵を一人にしなかった人がいる。


 その事実だけを抱えて、葵は波の音を聞き続けた。


 翌朝、葵は浅い眠りから目を覚ました。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。天井は教室ではない。家の自分の部屋でもない。古い木の天井。畳の匂い。遠い波の音。


 戻っていない。


 その事実に胸が沈んだ。


 けれど、障子の向こうから和田の声がした。


「小林さん、起きていますか」


 葵は身を起こした。


「はい」


「今日も、昨日の掛茶屋へ行ってみようと思うのです」


 葵は障子の方を見た。


「昨日の人に、会えるかもしれないからですか」


 和田は少し黙った。


「ええ。あの人のことが、どうも気になって」


 その言葉は、原作の流れそのものだった。


 和田は屈託がないというより、無聊に苦しんでいた。することがないから浜へ行く。けれど本当は、昨日見た人のことが頭から離れない。


 葵は、昨日の夜に自分を気遣ってくれた和田を思い出した。


 今朝の和田は、もう先生の方を見ている。


 それが原作通りだと分かっているのに、葵は少しだけ置いていかれるような気がした。


「私も行きます」


 葵は言った。


 掛茶屋へ着いた時、昨日の西洋人はいなかった。


 葵は床几の端に座った。和田は落ち着かない様子で浜を見ている。葵もまた、先生が現れる時刻を知っているつもりで海岸を見た。


 しばらくして、先生が一人でやって来た。


 麦藁帽を被っていた。


 先生は葵たちの方へ来ることなく、掛茶屋の台の上に眼鏡を置いた。それから手拭で頭を包み、すたすたと浜を下りていく。


 原作通りだった。


 西洋人は来ない。


 先生は一人で海へ入る。


 和田が立ち上がった。


「行くんですか」


 葵が聞くと、和田は少し恥ずかしそうに笑った。


「少し、後を追ってみます」


 葵は止めなかった。


 止める理由がなかった。


 和田は着物を脱ぎ、浅い水を頭の上まで跳ねかして、先生の方へ進んでいった。ある程度の深さまで来ると、先生を目標にして泳ぎ始める。


 葵は浜に立って見ていた。


 先生は昨日と違って、真っ直ぐには戻ってこなかった。


 沖へ出たあと、ゆるい弧線を描くように、妙な方向から岸へ向かい始めた。和田が追おうとするほど、先生との距離はずれていく。


 葵は手を握った。


 和田は先生に近づきたい。


 葵も先生に近づかなければならない。


 けれど先生は、海の上でさえ、まっすぐには近づかせない。


 和田が陸へ上がってきた時、先生はもうちゃんと着物を着ていた。葵が瞬きをする間に、先生は入れ違いのように掛茶屋を出て行く。


 和田は濡れた手から雫を垂らしながら戻ってきた。


「駄目でした」


 彼は少し悔しそうに笑った。


「追いつけません」


 葵は、先生の消えた方を見た。


 和田の目的は、ついに達せられなかった。


 葵もまた、先生に一歩も近づけなかった。


 けれど台の上に一度置かれた眼鏡の跡だけが、葵の目に残っていた。


 次に何かが起こるなら、きっとあそこだ。


 葵はそう思った。


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