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Code_Sakuya/レイラインの軌跡  作者: 阿僧祇瑛佑
第七章 迷走の果て…めぐり逢い

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第七章 迷走の果て…めぐり逢い

インターホンのコールボタンを押す、

細く白い指。


『ピンポ〜ン♪』


玄関のチャイムが鳴ってしばらく──

インターホン越しに返事はなかった。

返事がないのを確認した瑞樹は、

合鍵を取り出してドアを開けた。


次の瞬間、

ドアノブに触れる微かな音がして、

扉がゆっくりと開いた。


「……先輩、います?

 瑞樹みずきです」


声は落ち着いているのに、

どこか“空気を揺らす”響きがあった。

持参した重いキャリーケースを、

玄関の隅に置いて靴を脱いだ。

持ち手に結んだネームタグには

瑞樹 沙耶(みずきさや)」と丁寧な書体で書かれていた。


「お邪魔し…ま〜す」


そう告げて、

瑞樹は靴を揃え、

ためらうことなく廊下を進んでいった。


廊下の先にある居間の扉を開けると、

扉の前は京一が立っていた。


「……なーんだ……瑞樹か」

来客に対して、いつもの無愛想な声。


瑞樹は頬をふくらませ、

少しだけ眉を寄せた。


「なんだはないでしょ!先輩」

「今日伺うって約束したでしょ」


「約束?……そんなのいつ……」


京一はそこで言葉を切った。

口が半開きのまま、続きが出てこない。


瑞樹は、

“ほらね”と言いたげに小さく息をついた。


「5月22日……先週の金曜日……

遅くなるけど、4日後の夜につくからって…

言いましたよね?

私、ちゃんと覚えて…ますよ」


京一は視線を泳がせた。


「… で…今日は何日……だっけ?」


「26日……ですけど…」


しょぼくれた声で、

瑞樹は少し拗ねたように言った。


「……あ」


忘れていた記憶が、

頭の中でようやくつながった。

 

「ほら、

やっぱり…忘れていた。

先輩そういうところ、…変わってない」


京一は頭をかきながら、

気まずそうに視線をそらした。


「すまん! 立ち話もなんだ……奥入れよ」


そう言って瑞樹の頭を軽くなで、

そのまま背中を押してソファへ座らせた。


「女性の頭をむやみに触らないの!」


「そうか、そうか……すまんな」


まるで子どもをあしらうように片手を振り、

京一は気を取り直すようにキッチンへ向かう。


「何か飲むか?」


「カフェロワイヤル……飲みたい♪」


「ロワイヤル? あるか!

……ったく酒飲みか、お前!」


「あれは香りを楽しむものなのよ。知らないの?」


「知るか!ここにはなぁー

そんな小洒落たものは置いてねーよ」


「じゃ〜ブランディティーで」


意に介さない返事に京一は無駄と覚悟した。


「アイスオーレでいいか」


「おねが〜い、先輩♪」


京一はコップを置き、

冷蔵庫を開けて支度を始めた。


その背後で、

瑞樹はペロッと舌を出して笑う。

──『仕返しよ』

小悪魔的なしぐさは、

京一にはすべてお見通しだった。


「ホットでなくてよかったのか?」


リビングのソファに腰を下ろしていた瑞樹の前に、

京一は、ミルク多めでノンシュガーの

アイス・オーレをそっと置いた。


「……ありがと」

京一は返事もせず、

ま書斎代わりに使っているデスクへ向かう。


「前に来た時も感じたけど、

先輩には都合良いい動線よねこの部屋」


「玄関からまっすぐ伸びる廊下とリビングの扉。

開けたらベランダまで広がるリビングダイニング。

そこを書斎に食事や仕事が一つで片付く……

不精には最適ですよね~」


「ちゃんと…食べて…ます?」


「心配ねーよ」


「今回だって、

おじさんがわざわざ来て、様子見くれって…」


「ったく…お叔父貴め…余計なことを…」

「それで、今日来たのは……

無茶ぶりを餌に、お節介を焼きに来た…ん?」


京一の声には、

探るような色が混じっていた。


瑞樹は一瞬だけ目をそらし、

唇をきゅっと結んだ。


「……き、来たいと思ったからそうしただけ。

 ……他意はないわ。

 余計な詮索しないでください」


エグゼクティブチェアに腰を下ろすと、

さっき中断した検索作業の続きを始めた。


◆~戯言の先に潜む不安

日本各地はもちろん、世界中には数えきれないほどの

パワースポットや遺跡が点在している。

それらを線で結ぶと、

ひとつの“見えない道”が浮かび上がる──


パワースポットや遺跡の存在理由を基に

一貫した連続性を概念として

最初に提唱したのが、

イギリスのアマチュア考古学者、

アルフレッド・ワトキンスだ。


彼は古い地図を眺めるうちに、

古代遺跡や教会、丘の頂が

まるで意図されていたかのように、

一直線に並んでいることに気づいた。


その線は、

霊所、遺跡、磐座、山岳信仰の祭場──

そして遠く離れたピラミッドにまで及ぶという。


ただの偶然なのか。

それとも、昔の人々が何かを知っていたのか。

そんな曖昧な話を、

まさか自分が追いかけることになるとは思わなかった。

京一は近寄る瑞樹に気が付いていなかった。


瑞樹は、訪ねてきた理由を

長々話し続けていた。


「…あーん……そうか」


画面に映る情報に意識を奪われ、

瑞樹の声が遠くに聞こえた。


瑞樹は咎めもせず無言立ち上がり、

京一の背後へ回り込んだ。


「それよりも、何して……るの?」


話題をそらすように、

瑞樹は京一の座る方へ歩み寄る。


背後からそっと身を乗り出し、

PCのディスプレイを覗き込んだ。


京一はわずかに肩を跳ねさせ、

画面を隠すように手を動かした。


瑞樹はディスプレイを覗き込み、

しばらく凝視したあと──

京一の横顔へ視線を移した。


そして、

静かに確信を込めて問いただした。


「……これがその理由ですね?」


京一はわずかに肩を揺らし、

視線をそらす。


「インターホン鳴らしても返事がないわけね。

 先輩……いつから興味を持ちました?

 前は全然そんな素振りなかったですよね」


「都市伝説とか、遺跡とか……」


言いかけたところで、

京一が慌てて言葉をかぶせた。


「知り合いの編集長…先輩だけどr…

依頼された企画があって…その時に」


瑞樹は画面を指差す。


「でも、これは?

 《量子のもつれと量子テレポート考察》……

 これ、

明らかに先輩の専門外ですよね?」


「そ、それは……だな……その……」

京一返事に窮しは言い淀んでいた。

瑞樹が“核心に触れた”と言わんばかりに

静かに問いかけた。


「……何があったの?」

京一は小さく息を吐き、

観念したかの口調で

事の成り行きを語りだした。


「街中で…

…拉致されかけた人を助けたことが…あって…」


瑞樹は一瞬、言葉を失った。

次の瞬間、

怒りとも不安ともつかない声が漏れた。


「……なんて危ないことを!」


京一は肩をすくめる。


「今の世の中、

巻き込まれたら命落とすわよ。馬鹿」


狼狽した瑞樹の口調は、

後輩の立場を超え幼馴染の振る舞いだった。


「いや、女の人を拉致っていたやつに…、

 軽く当て身を食らわせてやった…」

脳天気に淡々とした返事を返した。


「それを無茶って言う・ん・ですよ……

 凶器を隠し持って…たら・確実に刺されて…た」


「でもこの通り無事だろ」


瑞樹は深くため息をついた。


「ほんと……馬鹿。あきれた」

京一は苦笑しながら続ける。


「でもな……そいつら諦めたのか

あっさり引き下がっていった…」


「命拾いしたわね」


瑞樹は腕を組み、

少し間を置いてから尋ねた。


「で、その襲われた人はどうなったの?」


「それがさ──偶然また出会って」


そう言って、

京一は

数日前の喫茶店での出来事を話し始めた。


京一が照れくさそうにだらだら語るのを、

瑞樹は黙って聞いていた。

話が終わると、

わずかに目を細めて言った。


「……で、息が合っちゃった、と」

京一は否定も肯定もしない。


瑞樹はディスプレイに浮かんだページを指し、

指先をくるりと回ながら京一の鼻先へ向けた。


「その影響がこれ、というわけね?」

京一はわずかに肩を揺らし、

視線をそらす。


瑞樹は続ける。


「インターホン鳴らしても返事がない…

もう一つの理由がこれだったと…」

 

画面には

《量子のもつれと量子テレポート考察》

の文字。


瑞樹は京一の顔を覗き込み、

にやりと笑った。


「さぞかしお美しい方だったようね?

 先輩 鼻の下、伸びて…ます…」


京一は慌てて姿勢を正す。


「な、ンなこと…ありえん!」


瑞樹は肩をすくめ、

“バレバレよ”と言わんばかりだった。


瑞樹はソファへ戻るなり

ゆっくりと身をゆだね始めていった。

穏やかな寝息が辺りお溶け込んでいく。

長旅の疲れが一気に出たのか、

瑞樹はそのまま静かに眠りに落ちた。


柔らかい会話が途切れた後、

京一は沈黙の空気位に作業の手を止めた。


「おとなしくなったか」


会話が途切れた元を探ろうと、

席を立ちソファに向かった。

横たわり寝息を立てる瑞樹の肩を

軽く揺すった。


「瑞樹…瑞樹」


「は…寝る…明日ね〜」


「明日って泊まる気か」


「え…あ・あ…ぃ」

おぼろげに返事を返す瑞樹は、

すでに熟睡体制に入っていた。


「そりゃ困る、ホテルまで送っていくから…」

慌てて抱き起こすとするも、

力ない体はソファを離れることがなかった。



「え…?ホ…テ…ル……zz

 予約なんてしてない……でしゅ」


「端から泊まる気だったのか?瑞樹」


「……え…へへ…

おやすみなさ〜い先輩…ZZZ」


起こすのをあきらめた京一は、

リビングと扉一つで隔てられた寝室へ向かった。


押し入れを開け、

裏起毛のブランケットと、

来客用の布団を抱えて戻ってくる。


「……しょうがねえな。布団、これだけだぞ」


ソファで眠る瑞樹に、

そっと布団を掛けてやる。


瑞樹は微かに身じろぎしたが、

すぐにまた静かな寝息へ戻った。


「今日はちょっと冷えるかもな」


京一はそう呟き、

自分の肩にブランケットを羽織る。


そして、

エグゼクティブチェアに深く沈み込み──

そのまま、

静かに目を閉じた。


◆〜迷走・遁走・因果・再逢〜

朝の陽だまりが、

京一の頬をそっと撫でていた。

外からは、

街が目を覚まし始めた気配が微かに聞こえる。


「……あぁ、寝入ってたか」


深く沈みこんでいた身体をチェアから起こすと、

首筋に鈍い痛みが走った。


「寝違えちまったな……」


軽く首を回しながら、

昨夜ソファで眠り込んだ瑞樹を起こそうと近づく。


しかし──

そこにあったのは、

綺麗に畳まれた布団が一枚だけ。


「ん……帰った、か。やれやれ」


苦笑しながらキッチンのごみ袋を掴み、

リビングの扉を開けて廊下へ出る。


その時、見慣れないキャリーバッグ”が

廊下の隅に置かれているのが目に入った。


「……帰った、じゃなかったのかよ」


ちょうどその瞬間、

玄関の扉がゆるりと開き、瑞樹が入ってきた。


腕にはパン屋の袋を抱えている。


「あら、先輩。もう起きてました」


「お前こそ……てっきり帰ったのかと」


「そんなわけないでしょう?」


瑞樹は薄く笑い、

手に握ったキーホルダーを、

京一の目の前で揺らして見せた。


「叔父様から頼まれた時に預かったのよ」


「……お前、それ……」


「それより先輩、お腹空きません?

さっきパン屋さんで……出来立てのカスクート

買ってきました。

一緒に食べませんか?」


瑞樹が差し出した袋の中には、

焼きたてのパンだけじゃなく、

もう一つの袋には

サラダ、ゆで卵、ツナ缶に、

コンソメスープ、真空パックのチキン…

がぎっしり詰まっていた。


まるで通い妻がする朝支度に似ていた


「朝から重いよ……」


京一が眉をひそめると、

瑞樹は少しだけ呆れたように、

でもどこか嬉しそうに言った。


「朝はバランスよく、きちんと食事をとる。

……ですよ、先輩」


いうや否や、瑞樹は京一の手元を指さした。


「あ、早く行った方がいいですよ、それ。

収集車、近くで見かけました」


「そ、それを早く言わんか!」


京一は慌てて草履をつっかけ、

左右逆でも気にせず飛び出していく。


「支度しておきますね、ブレックファースト」


瑞樹は、走り去る京一の背中に

柔らかく声を投げた。


京一がゴミ袋を持って飛び出していったあと、

瑞樹はアイランドキッチンの前で

サラダの上のチキンをフォークで軽くつついた。


数分後、

玄関の鋼製扉が静かに閉まる音がした。


キッチンの足元には、

出しそびれたゴミ袋がひとつ増えている。


瑞樹は小さく息をつき、

自分のワンプレートを手に取ると、

南向きの光が

差し込むソファ前のガラステーブルへ置いた。

そのままソファに腰を下ろし、

スープをひと口含む。


右手の壁沿い──

書斎机の前で京一が肩を落としていた。

モニターのランプが点滅し、

ロータイプの書棚が

キッチン側からの視線を少し遮っている。


「先輩、朝ごはん置いてありますからね」


京一は机に置かれたミニトレーの朝食に目を落とし、

椅子を引いて腰を下ろした。


「瑞樹……料理できるのか」


「当たり前よ。もう子供じゃないんだから」


京一は焦げたサニーサイドをフォークでつつき、

カスクートを一口かじる。

咀嚼程々にスープを手に取り、

喉奥へ流し込んだ。


瑞樹はソファでサラダを混ぜながら、

横目で京一の方をちらりと見た。


「先輩……目玉焼き、何をかけます?

ソース? 醤油?」


書斎机から京一の声が返る。


「マヨネーズ!」


「……」


瑞樹は思わず口元を押さえた。


「冗談……胡椒だよ」


南向きの光が二人の間に柔らかく落ち、

同じ空間で別々に食事をする静かな朝が流れた。


瑞樹はソファ前のガラステーブルで

ワンプレートの朝食をつつきながら、

書斎机に向かっている京一へ声を投げた。


「先輩、朝食済ませたら散歩しませんか」


京一はPCの画面から目を離さず、

椅子に座ったまま肩をすくめた。


「食べた後は勘弁してくれ。

胃がもたれるんだ」


「何言ってるんですか。

下腹出ますよ。

……“ながら族”だから体が怠けるんですよ」


京一は机の端に置いたコーヒーカップを手に取り、

ひと口だけ残った液面を見つめた。


「せめてコーヒー一杯飲んでからにしない?」


「一杯だけですよ。

それ以上は待てません」


瑞樹はサラダを混ぜながら、

ちらりと京一の方へ視線を送る。


生活リズムを悉く崩され、

京一はたじろぎながらため息をついた。

それでも、

カップに残った一口分を 小分けに含み、

姿勢を変えずにPCへ向き直った。


「ほらもう、悪あがきしないで観念してください」


瑞樹はソファ前から立ち上がり、

書斎机に向かうと、

京一の腕をつかんで椅子から立たせた。


「おい、こぼれるって……」


「嘘。もう残ってないでしょ。

サッサと行きますよ」


有無を言わせぬ調子で急き立てられ、

京一はしぶしぶ廊下へ引き出されていった。

あわただしい足音が遠ざかると、

部屋には静けさが戻り、

南向きの光だけがゆっくりと満ちていく。


しばらく続いた沈黙のあと、

書斎机のモニターは、

開いていた画面を漆黒に染めた。



◆忘却という名の試練


PCはスリープモードへの移行処理を終え、

モニターは静かにブラックアウトしていた。

本来なら、接続された周辺機器の動作が

モード解除の合図になるはずだった。


だがその朝に限って、

何の前触れもなく──

スリープモードが、ひとりでに解かれた。



マンションを出てしばらく歩くと、

京一がいつも立ち寄る公園があった。

日課となった散歩道だけに、

自然とと足はその方向へ向かっていた。


公園に着くなり、

京一はお決まりのようにベンチへ腰を下ろす。

瑞樹も促されるように隣へ座ろうと──

そこで、ふいに動きを止めた。


立ち尽くしたまま、

瑞樹は東の空をじっと見つめていた。


「……あれ?」

視線は、公園のある方角よりもさらに先──

東の空の一点に吸い寄せられていた。


「どうした。何か見えるのか?」

怪訝そうな顔付きで瑞樹に問いかけた。


瑞樹は京一の言葉にピクリと反応を示したが

ゆっくりと京一の座る方に向ける。

その表情は虚ろながらも眼光鋭くもあり、

どこか慈愛に満ちていた。


京一はその瞬間、畏怖を覚え言葉をなくした。

京一向けた顔はゆっくりと東の空を見据え直した。

瑞樹は額ほどの高さに片手をあげて、

掌を前に向けていた。

それは

何が得体のしれない衝撃を、

確実に制止するかのような仕草だった。


「瑞樹……おい瑞樹!」

異様な行動に理解が及ばず、

瑞樹に問い続けていたが反応はなかった。


瑞樹の内に潜む何かが、

強い思念を放った。


その瞬間、

瑞樹の身体は身動きしないまま

瞳孔がわずかに開き、

瞳の輝きが増したように見えた。


ただ──

京一には、言い知れぬ重圧とともに

本能がざわつくような畏怖だけが走った。

理由は分からない。

ただ、瑞樹の“何か”が変わったと

身体が先に告げていた。


瑞樹の口は閉じたまま声すら発していない。

それなのに、

空気だけが異様に張り詰めていた。


京一には、

瑞樹が沈黙したまま東の空を睨みつけ、

手をかざしているようにしか見えなかった。

『──そこで止まるがよい。何をするつもりじゃ』


瑞樹の内側から放たれたその声に、

粒子体の吽雲璃が震えた。


『この寄り代は我にとって欠かせぬ……

そなた、何者ぞ』


吽雲璃は慌てて思念を返す。


『恐れながら……ご無礼、お許しくださいませ』


その思念に応じるように、

瑞樹の内に潜む存在が静かに名乗った。


『我は──サクヤである』


瑞樹の表情がわずかに変わった。

柔らかさと威厳が同居する、

本来の瑞樹とは異質の気配が滲み出ていた。


サクヤは瑞樹の視界を借り、

周囲をゆっくりと見渡した。


吽雲璃が名乗る。


『我の名は吽雲璃と申し……いえ、

吽雲璃と“名乗らされました”』


『そなたの名ではないと申すのか』


『名だとは思います。

しかし、朧ながら……それ以外の記憶が浮かびませぬ』


『それは異なことを。なぜそうなる』


『分かりませぬ。

名前以外は、何ひとつ……』


サクヤは静かに息をつくように思念を揺らした。


『わらわも理由は分からぬが、

霊力を削がれてしもうた。

仕方なく寄り代に頼るのが精一杯での』


『不憫とは思うが、

今のわらわでは何もしてやれぬ』


『せめてもの情け──

何かを寄り代にすることなら手を貸せるが……どうじゃ』


サクヤの寄り代<瑞樹>の傍には、

いつの間にか伏せ寝している犬がいた。


吽雲璃はその犬を見て、

粒子体を小刻みに震わせた。


『恐れながら……それは……』


かつての“辱め”の記憶が蘇ったのだった。


『いやと申すのか』


『お許しくださいませ……』


サクヤは諭すように、しかし厳しく告げた。


『しかし、覚えぬまま形も定まらず迷うとて、

どうすることもできぬではないか』


『己が定めと見据えれば、

先も見えるというもの』


『ときが来れば──

すべて思い至ることになるやもれぬ……吽雲璃』


吽雲璃は黙って従うと

犬の額めがけて粒子の塊が解け入った。

犬がそっと近づき、瑞樹の踝に鼻先を寄せた。

瑞樹の指先が、無意識のうちに犬の首輪へ触れた。

その瞬間、誰にも見えないほど微細な光が

首輪へと吸い込まれていった。

京一には何も見えない。

だがそれは、サクヤが振り絞った霊力の“刻印”だった。


『……これでよい。

そなたの因果を探る“鍵”を刻んだ。

この犬は、いずれ道を開こう』


吽雲璃を諭してサクヤは思念を消した。 

我に返る瑞樹は足元にいる犬を撫でていた。


「このワンちゃん、かわいい……♪

でもどこの子? 首輪してるけど……」


瑞樹は首輪を指で探り、

擦れて読みにくい文字をじっと見つめた。


「ば……? V……A……? I? いや、L……?

──あ、L。

VALL……バル? ふふ、かわいい名前」


瑞樹は笑って京一を振り返る。


「先輩どうしたの?

そんな怖い顔して〜え」


京一は犬を見つめたまま固まっている。


瑞樹は続けた。


「この子、保護犬かもしれないよ。

朝、買い出しの途中でさ──

『犬が逃げたー!』って騒いでる人がいたの。

たぶん、この子じゃないかなって」


京一が眉をひそめる。


「保健所か?」


瑞樹は即座に首を振った。


「先輩、それはないよ。

保健所の犬が逃げるなんて絶対ありえない。

たぶん……保護センターのほう。

あそこなら、散歩中にリードが緩んだり、

職員さんの手が離れたり……そういうの、あるから」


犬──バルは、

まるで会話を理解しているかのように

瑞樹の足元で静かに座り込んだ。


瑞樹が思い出したように口を開く。


「……そういえば、朝の人が言ってたよ。

『リードをつけようとしたら急に逃げた』って。

だから、この子……リードはついてないんだと思う」


京一はバルの首元を見て、

「なるほどな」と短く頷いた。


「……じゃあ、保護センターに行ってみるか。

確か、ここからちょっと遠かったよな」


瑞樹は不安げに周囲を見回す。


「先輩……私、この辺ほんとに土地勘なくて。

一緒に行ったほうがいいかなって思ったんだけど……」


京一はその様子を見て、

ふっと口元を緩めた。


「一緒に行くのもいいけどな。

着いたら受付で時間かかるかもしれない。

お前、先に帰ってろよ」


「でも……気になるし」


「それなら家に帰って、コーヒーでも淹れておいてくれ」


「コーヒー……?」


京一は少し考え、

わざとらしく眉を上げた。


「なんつったけ……カ・カフェロワイヤルだったか?」


瑞樹が即座にツッコむ。


「朝からお酒飲む気? ……あ」


京一は肩をすくめ、

照れ隠しのように笑った。


「冗談だよ。

……あとでな」


言いかけて、ふとバルを見る。


(ペットフード……あるわけないか)


小さく息を吐き、言い直す。


「帰り道の途中にペットショップがある。

小型犬用のフード、買っておいてくれ。

店が開いてなきゃ……冷蔵庫にミルクがあったと思うから」


瑞樹は驚いたように目を丸くし、

それからゆっくりと頷いた。


「……分かった。

じゃあ、先に戻ってるね」


「おう。

じゃ──あとでな」


二人は別々の方向へ歩き出した。

バルはしばらく瑞樹の背中を見つめ、

それから京一の足元へ静かに寄り添った。


瑞樹は言われたとおり、

帰り道の途中にあるペットショップへ立ち寄った。

しかし、シャッターはまだ半分も上がっていない。


「……まだ開いてなかったか。

仕方ないな」


小さくため息をつき、踵を返して自宅へ向かう。


玄関の鍵を開け、

靴を脱ぎ捨てるようにしてソファへ腰を下ろした。


「あの犬……どうなるんだろ」

「先輩、大丈夫かな……」


思案しても浮かんでくるのは憶測ばかり。

胸の奥に溜まるもやもやを振り払うように、

瑞樹は立ち上がってキッチンへ向かった。


「とりあえず、コーヒー……」


お決まりのインスタントを手に取ったところで、

ふと動きが止まる。


……なんか味気ないな」


そう呟きながら戸棚を開けると、

奥のほうに見慣れない箱があった。

引き出してみると──自動ミル挽きコーヒーメーカーと、

封の開いていない豆の袋。


「やっぱりあった……!

先輩、一度はこういうの凝るんだよね」


袋を軽く振りながら、苦笑する。


「最後は棚の奥でひっそり……もったいない」


スイッチを入れると、すぐに低いモーター音が響き、

挽きたての香りがキッチンいっぱいに広がった。


「……いい香り」


抽出が始まるまで少し時間がかかる。

瑞樹はソファに戻ろうとしたが、

ふと朝の光景が脳裏に浮かんだ。


「先輩……何をあんなに一生懸命見てたんだろ……」


コーヒーの抽出音を背に、

瑞樹はふらりとPCの前へ歩み寄った。

中指で軽く Enter キーをタップする。

黒い画面が一瞬だけ明滅し、

すぐにパスワード入力画面が立ち上がった。


「あら……スリープモードだったの?」


パスワード欄をじっと見つめる。


「一人暮らしとはいえ…

…セキュリティは常識、だよね」


そう言いながらも、

視線はパスワード欄から離れない。


「でも先輩って……あれでいて結構コアな作品とか、

意味深なSFが好みだったような……」


瑞樹はそっと息を吸い、

心の中で“ごめんなさい先輩”と呟きながら

キーを叩き始めた。


「まずは一回目……」


──不正解。

「……だめか」


しばらく考え込み、

ふと思い浮かんだタイトルを入力する。


「ダロス……違う」

「クリスタルトライアングル……これもダメ」

「メガゾーン23……オーガス……マクロス……」

「ダンバイン……ダークグリーン……」

「ブラックマジック M-66……赤い眼鏡……ゼイラム……」


次々とタイトルが口から漏れ、

もはや

独り言を越して“懐かしのSF大集合”になっていた。


「ここで諦めれば怒られない……

やめるべきか……どうしよう……」


指先はキーの上で止まったまま。

罪悪感と好奇心が胸の中でせめぎ合う。


「……単純なワードじゃない。

アナグラム……?

でも先輩が覚えられないほど複雑にはしないはず……」

瑞樹は小さく息を吸い、

最後の五文字をそっと口にした。


「N・A・D・E・S……うーん……

先輩なら……ここでひねってるはず……」


そして──

導かれるように、最後の語を打ち込む。


「……O・T・I・K・A」


Enterキーの上で指が一瞬だけ震え、

軽くタップした。


画面が暗転し、

管理者承認コマンドの文字列が走る。


次の瞬間、

検索中の画面へ切り替わった。


「……解除しちゃった」


その声は、

驚きと、

ほんの少しの罪悪感と、

それ以上に大きな“何か”に満ちていた。


モニターには、

京一が開いていた検索画面が一瞬だけ表示された。

だが次の瞬間、画面は真っ黒に沈んだ。


「え……やばい」

「トラップだった……?

いや、でも先輩に…

こんな高等スキルあるわけないし……」


瑞樹は唇を噛み、

モニターの黒い光沢に映る自分の顔を見つめた。


「どうしよう……」


そのときだった。


黒い画面が、

ふわりと霧のように揺らぎ始めた。


「……え?」


霧はゆっくりと形を取り、

輪郭がにじむように浮かび上がる。


やがてそこに現れたのは──

とてもかわいい犬のキャラクターだった。


「なにこれ……かわいい……」

「でも先輩、こんな趣味あったかしら……?」


何を想像したのか、

瑞樹は肩をすくめて身震いした。


「そんなわけない……何かの間違い……」


モニターの中の犬は、

まるでこちらを見上げるように瞬きをした。


瑞樹は思わず問いかける。


「あなた……誰?

……いや、それも変ね……

何なの………スパム?…何なのよ」


「…(バク)ではない」


瑞樹の真後ろから、

はっきりとした声がした。


「えっ……どこから……

だれ……誰よ~~!」


瑞樹の瞳は空間を泳ぐ。

だが、気配はどこにもない。


ただひとつ、

モニターに映る二次元の犬だけが、

確かに“こちらを見ていた”。


「どこ……どこから声が……?」


瑞樹は部屋中を見回しながら、

背中を壁に押しつけるようにして後ずさった。


「声ではない。

お前に“思念”を送っておる。

それが声となって聞こえているだけじゃ」


落ち着き払った声が、

まるで空気そのものから響いてくる。


「で、でも……どこから……?」


「ここじゃ。

おぬしの“目の前”におるじゃろう」


「え……?

この犬なの……?」


モニターの中の、

かわいらしい二頭身キャラクターを指さす。


「──誰が犬じゃ」


即答だった。


「だって、どこから見ても犬ですが」

「わしは“黄金色の骸”でもないぞ。

ましてや犬など論外じゃ」


「……黄金色の骸?

なにその昭和特撮みたいな……」


瑞樹は震えながらもツッコミだけは忘れない。


次の瞬間、

彼女は洗面所へ駆け出した。


ポーチをひっつかみ、

中から手鏡を取り出すと、

それを持ってPCの前に戻ってきた。


「ほら、見てよ。

どう見ても犬でしょ?」


モニターの前に手鏡を突き出す。


「……お前はだれじゃ」


「え?

それって“あなた”のことだよね?」


「その反応からして……

やはり犬やないの」


「いやいやいやいや!

自分で言ったでしょ!?

“誰が犬じゃ”って!」


恐怖よりも、

なぜか笑いが勝ってしまった瑞樹は、

肩を震わせながら鏡を下ろした。


モニターの中の“犬”は、

むすっとした表情でこちらを見返していた。


「犬ではない、無礼者! そちこそ誰ぞ」

その瞬間、

瑞樹の笑いがふっと止まった。


モニターを見下ろす視線が、

急に冷ややかで、

どこか“人ならざる威厳”を帯び始める。


「そなたこそ……何者だ」


その声は瑞樹のものではなかった。

眼光が鋭くなり、

空気そのものが重く沈む。


威圧の思念が、

モニター越しの阿摩那を押し伏せた。


阿摩那は逆らうすべを失い、

思わず頭を垂れるように声を震わせた。


「こ、これは……ご無礼……

お詫び申し上げます……

し、して……あなた様は……?」


「わらわか……」


瑞樹の口が、

しかし瑞樹ではない“何か”の声で動く。


「わらわは──サクヤ」


阿摩那は息を呑んだ。


「そなた、一度訪ねる。

何者であるか」


「……阿摩那と申します」

「阿摩那、か……」


サクヤは静かに目を細める。


「そういえば、あの者……

吽雲璃とか申しておったな」


「え……吽雲璃をご存じなのですか……

その者は今どちらへ……?」


阿摩那はことのほか狼狽し、

声が震えていた。


サクヤはゆるりと首を振る。


「安心するがよい。

遠からず逢えるであろう」


そして、

阿摩那の核心を突くように問う。

「もしや、そなたも……

何も覚えておらぬのか」


「仰せの通りです……

名すら朧気で……

これも誠の名とも思えませぬが……

心に刻まれていた気がいたします……」


「そうか。

わらわも同じであろうな……

ゆえに、この者を依り代にしておる」


サクヤは瑞樹の身体をそっと見下ろす。


「しかし……

姿を現し続ければ、

瑞樹とやらが壊れてしまう」


ふっと、

思念が薄れていく。


「またどこかで会うやもしれぬな……」


その最後の思念を残し、

瑞樹の身体から“気配”が静かに抜け落ちた。


瑞樹は、

何事もなかったかのように

ゆっくりと瞬きをした。

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