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4.現場

 起伏に富んだ道を三十分程走ったであろうか、だいぶ年季の入った黒い板塀に囲まれた大きな屋敷に辿り着いた。入り口は敷地に比べると随分と狭く、太い丸太を大人の背丈の倍ほどの高さに切ったものを黒く磨き上げた見事な柱二本で作られていた。鹿子木は車をこの立派な門から中に入れ、砂利引きになっている納屋の前に止めた。きちんと手入れされている芝生を踏み締めながら二人は母屋の玄関まで歩き、呼び鈴を鳴らした。


「ご免ください」

 鹿子木が声を掛けると奥から低音で粘りのある声で返事があり、重厚な引き戸が静かに開けられ、筋肉質で色黒の初老の男が出てきた。

「はい、何かご用でしょうか?」

「つくば東警察署の者ですが、ご主人でしょうか?」

「いいえ、私は執事の雨引あまびきと言います。少しお待ちください」

 そう告げると包帯をした右手を庇うようにして雨引は奥に入っていった。しばらく待たされてから今度は左手に白い包帯をした女性が出てきた。洋介は、随分と怪我人の多い家だな、と思った。


「私はつくば東警察署刑事課の鹿子木康雄と申します。二年前と三年前の事件の時にもお邪魔しましたが、今回の矢祭隆さんのハチ刺され事件について捜査を担当させていただきます」

「さようでございますか。いろいろとお世話になっております。私はこの家の長女の郡頭美恵子です。相変わらず母の正子は足が悪くて寝たきりの状態ですので、代わりに私がお相手させていただきます」

 黒く染めていると思われる髪の毛は肩より少し上までのショートカットで、身長は百六十センチよりやや低く、痩せ形で色白で上品な感じが漂い、初老と表現するのは申し訳ないように思われる女性であった。洋介にはどことなく大正時代の雰囲気が感じられるように思われた。

「よろしくお願い致します。それと、こちらは科学の専門家であります神尾洋介さんです。今回の捜査を科学的な観点からお手伝いしていただこうと思っております」

「神尾洋介です。よろしくお願い致します」

 美恵子は一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐにどことなく近寄り難いような表情に戻って、軽く会釈した。


「早速ですが、矢祭さんがハチに刺された現場に行きたいのですが、どちらの方向でしょうか?」

「庭の西側に畑に沿った細い道があります。その道をずっと先に進まれれば、もう既に警察の方たちが来られて捜査されていると思いますから、直ぐお分かりになるのではないでしょうか」

「そうですか、それでは早速そちらに行ってみます。有難うございました」

 そう言うと鹿子木は早足に芝生の上を歩き始めた。慌てて洋介は美恵子に頭を下げるとそれに続いた。


 二人がしばらく歩いていくと、管轄駐在所の警官とつくば東署の若手の刑事が畑の側道にしゃがみ込んで何かを見ていた。

「ああ、鹿子木さん。ここにスズメバチの死骸がかなり落ちていますよ。倒れたのはここではないでしょうか」

 若手の刑事がそう言うのを聞いた警官は慌てて立ち上がり敬礼して鹿子木たちを迎えた。

「なるほど、いくつも死んでいるな」

「他もざっと見てみましたが、この道の先の方に何ヶ所かハチの死骸が点在していた以外には発見できませんでした。向こうで刺されてここまで逃げてきて倒れたものと思われます」

「そのようだね。ここはこっちで引き受けるから、君は郡頭家に戻って親族からの事情聴取を継続してくれないか」

「分かりました。まだスズメバチが時々飛んできていますので、気を付けてください。それじゃ、後はよろしくお願いします」

 そう言うと若手の刑事は駐在所の警官を引き連れて母屋の方に戻っていった。


 洋介は鹿子木が話している間、矢祭隆が倒れていたと思われる場所に落ちていたハチの死骸を見ることに集中した。

 胸部と腹部との間のくびれは明確で、体色は黄色が基調で黒い縞模様があり、全身黄色いウブ毛に覆われ、腹の先端は黄色で毒針が尖っている。歌舞伎の強者の化粧でもしたような強面こわもての顔の中央にあって鼻のように見える部分は少し歪んだ六角形で、中間より下側にある左右の角は少し出っ張っている。目の間に三つある小さな点の周辺は黒く、一対の触覚は顔の縁あたりで曲がり下がっている。

 また、括れている部分の少し上には横に細い黄色の縞が見える。体長は二センチ前後でかなり小振りではあるがスズメバチに間違いない。洋介はスズメバチに関してそれほど知識があったわけではなかったので、ハチの体長からコガタスズメバチかと思った。


「神尾さん、どうですか、やはりスズメバチでしょう?」

「そのようですね。ただ、オオスズメバチ程大きくはないですね。もうちょっと先の死骸も見てみましょう」

 そう言うと洋介は所々に落ちているハチの死骸を見つけながら細い道をゆっくりと進んだ。五十メートルほど進むと数匹のハチの死骸がまとまって落ちていて、それより先には見当たらなかった。

「この辺で刺され始めたのでしょうね」

 鹿子木が自信満々の声で言った。

「多分、そうなんでしょうね」


 洋介がそう答えている間に、黄色の小さな物体がブーンという音を立てながら二人をめがけて飛んできた。それ以外にも数匹の羽音が聞こえる。

「あっ、これはスズメバチかも知れない。急いで戻りましょう。大きな声を出さないでくださいよ。鹿子木さんも私と同じようにしてください」

 そう小さな声で言うと、洋介はポケットから白いハンカチを取り出して頭を隠し、静かに後退りし始めた。鹿子木もそれに倣ってハンカチで頭を隠すと洋介に続いた。

「鹿子木さん、横に動いてはダメですよ。真っ直ぐに後退してください。それから、スズメバチは黒い所を狙うと言われています。目が危ないので、できるだけ顔は伏せていてください」


 二人は慎重に後退し続けた。ハチに刺されはしまいかという恐怖心に耐えながら後ろ向きにかつ慎重に歩くのだから、随分と長い時間のように感じられた。ハチが飛んできた地点から三十メートル程戻ったところで、羽音が聞こえなくなったのを確認すると洋介が言った。

「もう大丈夫でしょう。とにかく、一旦母屋の方に戻りましょう」

 二人は歩きながらハンカチを頭から取り去ってポケットに突っ込んだ。



 母屋の庭に辿り着くと、二人とも安心したような表情に戻った。

「鹿子木さん、警察署に連絡してハチの巣駆除に使う防護服一式を二組、持ってきてもらうようお願いしていただけないでしょうか?」

「防護服一式って、頭に被るものもですか?」

「もちろん、そうですよ。それと、専用の手袋と靴もです」

「えっ、そんなもの、警察にはありませんよ」

「市役所などではスズメバチ駆除を引き受けているようですから、きっとどこかにありますよ。何とかしてもらってください。さっきスズメバチが飛んで来た所の近くにスズメバチの巣があると思います。今日中にきちんと調べておいた方が良いと思うんです。だから、何とか都合を付けてもらうようにしてください」


「分かりました。神尾さんがそこまで言われるんでしたら、頼んでみますよ」

 そう言うと、鹿子木は携帯電話でつくば東署に連絡を取った。随分と長い間交渉していたが、電話を切ると洋介に言った。

「神尾さん、とにかく市役所に訊いてみて、何とかしてくれるそうです。もうしばらくお待ちください」

「はい、有難うございます。暗くならないうちにお願いしますね。何としても明るいうちにハチの巣を見つけたいんです」

 しばらく待っていると鹿子木の携帯電話が鳴った。

「神尾さん、今日中の捜査に間に合うように防護服を持ってきてくれるそうです」

「そうですか。有難うございます」


「ところで、神尾さん、さっきのスズメバチに対する対応は見事なものでしたね。私なんか何も知らなかったので、一人でいたら大騒ぎしてハチに刺されてしまったかもしれません。どうしてそんなに詳しいのですか?」

「鹿子木さん、筑波山麓の住人としては当然知っておくべき事柄の一つですよ。ホビークラブの周辺でもスズメバチは時々飛び回っているんです。私もそれ程詳しい知識はありませんが、スズメバチが飛んで来た時の対応の仕方くらい一応身に付けていますよ」

「いやいや、さすが神尾さん。お見それ致しました」


 そこに先ほどの若い刑事が歩み寄り、鹿子木に伝えた。

「あそこの男の人、吉見壮一さんというんですが、あの人が救出に随分と活躍したそうです。鹿子木さんから事情聴取されますか?」

「おお、有難う。それじゃ、あの庭のテーブルで話を訊くことにしよう。お連れしておいてくれないか」

 鹿子木はそう応えると、洋介に一緒に行くよう目で合図した。


 綺麗に刈り込まれた絨毯のような芝生の隅に木製の大きな長方形のテーブルと沢山の椅子が置かれていた。梨はもう片付けられていてテーブルの上には何も置かれていなかった。若い刑事に促されて、壮一はテーブルの短い方の一辺の角に近い所に座った。鹿子木は長い方の辺の壮一に近い所に座り、洋介はその隣に座った。

「私はつくば東署刑事課の鹿子木康雄と申します。こちらは神尾洋介さんです。科学的知識が広くて豊富な方で、いろいろと相談に乗ってもらっています。お取り込み中申し訳ありませんが、今回のハチ刺され事件についてお話しをお聞かせ願えませんか?」

「はい、分かりました。私は吉見壮一と申します。郡頭家の次女順子の息子です」

「そうですか……。そうすると、二〇〇八年の九月にスズメバチに刺されて亡くなった吉見博三郎さんの息子さんですね。今回亡くなった矢祭隆さんとはどのようなご関係になるんでしたっけ?」

 鹿子木は知っているはずのことを確認するように訊いた。


「隆叔父さんは郡頭家の四女弘子叔母さんのお婿さんですから、私の義理の叔父になります」

「そうですか。ところで、随分と大勢の方が集っておられたようですが、今日はどんなことをされていたのですか?」

「今日は郡頭家恒例の梨狩りの日だったのです。毎年、敬老の日には本家に親族が集って、その年に収穫できる梨を味わう会を行なっているんです。幸水は収穫時期が終ってしまいましたが、最盛期である豊水を皆で思いっきり食べて秋を楽しもうという趣旨でやっています。それに今年は新品種の梨も試食できるかもしれないということで、皆楽しみにしていたのです」


「ほう、楽しそうな集まりだったんですね。それで、何で矢祭隆さんはスズメバチに刺されるようなことになったんですか?」

「隆叔父さんは新品種の梨を収穫するために畑に行っていたのです。幸水や豊水はこの本家の比較的近くで栽培されているのですが、新品種の梨はそれよりもずっと奥の畑で栽培されているので、ここからかなり離れているのです。収穫している最中に刺されたようです」

「矢祭さんはどなたかと一緒に梨の収穫に行かれたのですか?」

「一人で行ったようです」

「どうして一人で行かれたのですか?」

「よく分からないのですが、誰かに頼まれたのかも知れませんし、自分で行くと言ったのかも知れません。隆叔父さんはちょっと変わっていて、気難しい所がありましたから」


 それまで黙って聞いていた洋介が口を開いた。

「矢祭さんがスズメバチに刺された後で倒れた所は、ハチの死骸が沢山落ちていた道の上だったのですか?」

「はい、そうです。隆叔父さんはあそこまで逃げてきて動けなくなったんだと思います。それで、あそこで息子の信行さんにやっとのことで電話したようです」

「それを聞いた吉見さんが助けに向かった訳ですね。他にも行かれた方はいたのですか?」

「はい、勇三叔父さん、私の従弟の相沢宗彦さんが一緒に行きました。もちろん、隆叔父さんの息子の信行さんと豊行さんもです。それから、少し遅れて宗彦さんの弟の秀樹さんが軽トラックを運転して来てくれました」


 聞き役に回っていた鹿子木の所に若い刑事がやって来て、何やら話をしていたが、少し顔色を変えた鹿子木が質問した。

「聞くところによると、吉見さんは大活躍だったらしいですね。ハチに刺された時に使用する注射剤まで用意されていて、矢祭さんに注射されたそうではありませんか」

「ええ、そうです。あれはハチ刺されなどのアナフィラキシーショックの症状を緩和するための緊急補助治療に使うエピネフリン製剤です。昔はアドレナリン製剤と言っていたものです。こんなことが起こるかも知れないと思って常に私のバッグの中に入れてありました。隆叔父さんも自分用のものを保有していたはずなのですが、梨の収穫に行く時には持って行かなかったようです」

「その注射は医者でなくても使用できるのですか?」

「はい、これは患者やその家族が迅速に使うために医師が処方してくれる緊急注射用キットなので、大丈夫なのです」


「しかし、随分しっかりと準備していたものですねー」

「ええ、そうですよ。私の父も五年前にスズメバチに刺されて亡くなりましたし、宗彦さんのお父さんの哲也叔父さんも三年前にスズメバチにやられてしまいました。不幸中の幸いだったのは哲也叔父さんの命は取り留めることができたことです。

 父が亡くなった後、ハチ刺されについていろいろと調べてみたら、特に四十歳以上の男性が危ないということが言われていたので、該当する人たちで揃って病院に行って、自己注射用のエピネフリン注射剤を出してもらっていたのです。

 アナフィラキシーショックは二度目に刺された時が危ないとされていますが、自分ではスズメバチやアシナガバチに刺された記憶がない場合でも、昔刺されたことがあってずっと抗体価が高いままのこともあるので危険なのです」

「いやいや、そうでしたか。本当に大変でしたねー」


 鹿子木の質問をやや呆れ顔で聞いていた洋介が質問を再開した。

「先ほどのお話では、吉見さん、矢祭さんの息子さんである信行さんと豊行さん、郡頭勇三さん、従弟の相沢宗彦さん、それから軽トラックを運転して遅れて来た相沢秀樹さんの六人で助けに行った訳ですね。」

「はい、そうです。ただ、私は先ず母屋に入って自己注射用のエピネフリン注射剤等が入ったバッグを持ち、妻の真理子に救急車を呼ぶように言ってから向かいましたから、隆叔父さんが倒れていた所には少し遅れて到着しました」

「吉見さんが到着された時は矢祭さんの状態はどのようなものでしたか?」

「もう既に勇三叔父さんたちが隆叔父さんの上体を抱き起こし、声を掛けていました。体中ハチに刺されて腫れ上がっていて、声を掛けてもほとんど反応しませんでした。

 そこで私はスズメバチの毒針をできる限り取り除き、指で毒を押し出した後、応急処置として持ってきたエピネフリン携帯自己注射を隆叔父さんのズボンの上から太ももに打ったんです。それから秀樹さんの運転する軽トラックで母屋まで急いで運んでもらいました。

 私は皆さんより先に母屋に走って戻り、番茶や傷口を冷やすための氷水とタオルの用意をしてもらいました。そうこうしているうちに隆叔父さんが母屋に運び込まれたので、玄関の中の板の間に寝かせ、番茶で刺された傷口を洗い流した後、タオルでふき取って、その上にステロイド系抗ヒスタミン軟膏を塗り、皆に頼んで刺された所を氷水で冷やしたタオルで押さえてもらったのです」


「それで、注射や塗り薬の効果はあったのでしょうか?」

「さあ、どうでしょうか……。エピネフリン注射や抗ヒスタミン軟膏を使用しなかった場合と比較しないと分からないと思いますが、注射した直後は少し隆叔父さんが楽になったように見えたのですが……。

 本当はそれ程時間が掛かったわけではないのでしょうが、私たちには救急車がなかなか到着しなかったように感じられましたので、だんだん容態は悪くなっていきました。私の知識ではあれ以上のことはできませんでした。仕方なく救急車の到着を待つだけだったのです」


「そうですか……。ところで、畑に沿った道のだいぶ先の所が矢祭さんが倒れていた場所ということでしたね。それからもっと先の道にはハチの死骸は少しずつしか見当たりませんでしたが、何故あそこにだけ多くのハチの死骸があったのでしょうか?」

「発見直後の隆叔父さんの顔や手や首筋などにはハチが刺さったままぶら下がっていました。多分隆叔父さんが叩いて殺したのだと思いますが、針が抜けなかったのでしょう。そのままにしておくと毒がさらに体の中に入ってくると何かの本に書いてあったので、私は刺さったままのハチや毒針を爪で弾き飛ばし、傷口から毒液を指で押し出しました。だから、あそこには他の所より多くのハチの死骸が落ちていたのです」

「いや、お話を伺う限り、吉見さんの対応は完璧だったのではないかと私は思います。本当にお疲れ様でした」

 二人の話しを肯きながら聞いていた鹿子木だったが、若い刑事から耳打ちされると少し笑顔になり、その場を離れて門の方に向かって急いで歩いていった。


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