ドヤ街から這い出せ③
日菜の載った新聞を拾って、隼人は立ち上がった。
こんなところで腐っていられない。
自分がどう死のうが構わないが、自分が生きるこの世界は、日菜が守った世界なのだから。
「日菜……俺、がんばるよ」
隼人は顔をあげた。思えば行方をくらませてから初めてまともに空を見上げた。
春先の空はどこかあたたかく、柔らかな青さが目に沁みる。この空が日菜のいる戦場まで繋がっている。そう考えるだけで、隼人は再び立ち上がれるような気がした。
だからと言ってその瞬間から全てが変わるわけではない。側から見れば、浮浪者同然の男が古新聞を拾ったに過ぎないのだ。
変わったのは中身である。その日から得体の知れない酒に溺れるのはやめた。食い物こそ得体の知れない串焼きと、うっすら小便臭いすいとんであったが、酒をやめたのは大きかった。
今までは餓死しない程度だった日雇いの仕事を増やした。体力に自信があるつもりだったが、やはり体の使い方が違うのか、港の荷物運びを連日こなすのはかなりきつかった。
昨日までの隼人なら二日で熱が冷め、半月でドヤの住人に逆戻りしていただろう。
しかし今は違う。こうしている今も、日菜が戦っているかも知れないのだ。逃げた自分にできることは一つだ。日陰者でもいいではないか、この肥溜めのようなドヤ街から、せめて社会に復帰することであった。
二日働いて久しぶりに銭湯へ行き、伸び放題だった髭を剃り、髪を後ろで結えて顔を日に晒すようにした。
「やっぱりあんちゃん、どっか顔に品があるな」
男は笑った。どうやらこの男も、隼人に付き合って一念発起したようだ。こうしてこざっぱりした顔を見ると、男は思ったよりも若いようだった。隼人の少し上程度に見えた。
五日働いて服を買った。相変わらず物資が不足気味ではあるが、ぼろきれのような服では日雇い人足以上の信頼は得られない。ペラペラのカーキ色のスフ(再生繊維)製の国民服は肌触りも悪かったが、新品で手に入る服の中で唯一手が出せる代物であった。
「お、なんだよシャンとすると結構背ぇ高いな。国民服着てもサマになるのはなかなかだぞ」
男にそう言われて、隼人は少しだけ照れた。
七日働いて靴を買った。軍靴の払い下げだか横流しだかであったが、丈夫さだけは間違いない。手足が長い分、隼人は靴もそこそこデカい。靴のサイズは半ば諦めていたのだが……男は闇市を隅々まで探してくれたのだった。
「はは、こりゃいいや。あんちゃんに至っちゃ、サイズがあるだけめっけもんだよな」
「ありがとう……ございます」
そこで気付いた。誰かに感謝の言葉を告げるだなんて、ドヤ街に流れて初めてのことである。自分がそれほど荒んでいることに今まで気付けなかった、それが一番の驚きであった。
ドヤの人間はヤクザと流れ者ばかりではない。だが、その基準はドヤの外と比べれば格段に低い。休まず、怠けず、嘘をつかず、酒臭くない。それだけで他の連中より目立つ。
「……お前ら、少しはやる気があるようだな」
それをひと月も続けていれば、日雇い仕事を斡旋している連中、いわゆる手配師に目を付けられる。普段はどこの現場に何人、どこの船着き場に何人と、人足一山いくらの仕事をしている彼らであるから、当然顔は広い。それ以外にも様々な仕事のツテがきているのだ。
「工場住み込みの仕事だが……やるか?」
「ほ、本当……ですか?」
引き抜きの話があったその夜、話を聞いた男は我がことのように跳び上がって喜んでくれた。
「そうか!やったじゃないかあんちゃん、これでドヤ街から卒業だ」
「いやでも……俺一人だけが……」
後ろめたいのはそこであった。目の前の男は、隼人の勝手な決意に付き合ってくれた恩人ではないか。
自堕落な人間ばかりのドヤ街で、自制心を保つのはなかなか辛い。酒に逃げたい日もあれば、心の片隅でサボりたいと思った日もある。だが、そんなときも男は常にそばにいてくれた。そんな彼を放置して、自分一人ドヤ街から抜けるのは……もはや裏切りではないか。
「いいんだ、すぐに追っついてやるさ。俺のことは気にしなくていい、声がかかったのはあんちゃんが頑張った証拠さ」
男はからりと笑った。
「丁度いい、俺からのお祝いだ」
取り出したのはハサミと櫛であった。なんと男は散髪を申し出たのだった。
「髪……切れるのか?」
ぎょっとする隼人に、男はどんと胸を叩いてみせた。
「実はな、焼け出される前は床屋だったんだ。ハサミは大してよかないが、さっぱりさせてやるよ。
ずいぶん久しぶりだが、そこらのヤツよりはずっと上手いぞ」
男は隼人を座らせると、その首に手際良く古新聞を巻いた。水と櫛で髪をとかすと、手慣れた様子でハサミを入れ始めた。
さっさと動かすリズムや手つきは、まさに床屋そのもの。まるで勝手に動いているようで、全くブランクを感じさせない練度が伝わってきた。
「……上手いっすね」
「ありがとよ、元本職だからな」
しばらくじっとしているうちに、軽快なハサミのリズムにうとうとし始めてしまった。無防備な時ほど、人間は素がでる。まして今日も昼間は日雇いの肉体労働だったのだ、腹になにやら詰め込んだ後では、より一層だ。
「ずっと……気になってたんですよ」
「何がだい?」
「どうして、俺を気にかけてくれたんですか?」
ドヤ街には、それこそ掃いて捨てるほど住人がいる。若者は確かに少ないが、隼人と同世代どころか、歳下だっている。その中で、男は何故隼人にこんなによくしてくれたのか、ずっと不思議だったのだ。
「ん?……そういや、なんでかな。放っておけなくてなぁ……いや、違うな。
あんちゃん、歳の近い兄弟いるだろ」
「兄弟はいない……でも、生まれた時から殆ど一緒に育った奴はいるから、似たようなもんかな」
隼人の物言いは曖昧であったが、男は納得してくれたようだった。
「ああ、それでか。
あんちゃん気づいてるか?酔い潰れても、座ってても、眠ってても、あんたは隣をいっつも空けてるんだよ」
「え?本当に?」
「動くな、危ない。本当さ、だから兄弟がいると思ったんだ」
体に染み付いた自分の隣の空席。それはおそらく日菜のいた場所だ。もう新聞でしか見てないと言うのに、まだそんなことをしていたのかと思うと、顔が熱くなった。
「俺にも弟がいたんだ。年恰好も、なんとなくの雰囲気も、あんたに少しだけ似てた。
だから俺は嬉しいんだ、あんちゃんがドヤ街から抜けられるのがな。
自己満足さ、あんちゃんに勝手に弟を押し付けて、宙ぶらりんの兄貴のフリしてんだからな」
自嘲気味に男が笑った。
なんと言えば良いのか隼人には判らない。男にとっては自己満足かもしれない。だが、それに助けられてきたのは間違いないのだ。
「ありがとう……ございます」
「いいのさ、勝手にやってんだ」
「いえ……弟さんにも、いつかお礼を言わないと」
「はは、義理堅いやつだな。そういうとこが似てらぁ……なぁ、名前を教えちゃくれないか?
しばらくは別々だ。名前を覚えとかねえと」
「東雲隼人です」
「そうか、俺は柴田勝三……かっさんでいいよ」
「いいんですか……あの……兄さん(にいさん)とか言った方が?」
剣之丞を長いこと兄さん(あにさん)と呼んできた隼人であったが、それは兄弟子としての敬意を込めた呼び方である。他人を兄と呼ぶのは少々抵抗があるが、それで喜ぶならやぶさかではない。
しかし、男は小さく笑った。
「気を使わなくていいさ、自己満足なんだから。さあ、できたぞ。鏡がないから見せてやれないが……まあ、伸び放題よりはずっといいだろ」
ぱたぱたと切り屑を払い落とすと、勝三は慣れた手つきで切り落とした髪を古新聞ごと巻き取った。
額や鼻の頭を払って自分の頭を撫でてみる。なんの変哲もないこざっぱりとした短髪であるが、数カ月ぶりであった。
「ありがとう、かっさん」
「おう。頑張れよ、隼人。
俺もすぐにこんなところおさらばだ」
どちらからともなく固い握手を交わした。隼人よりも勝三の方が握力があるくらいだった。
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隼人はここから這い上がります。どういうロボットものなんでしょうか。
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