家庭の情事④
携帯を確認すると、次はせっちゃんからメールが来ていた。本文は何も書かれておらず、差出人のところにせっちゃんの名前だけが載っていた。
「すみません、ただいま戻りました」
「節さんを置いて出ていくとは、やはり君は節さんに相応しくない」
「いいんだ。彼は私の下僕だからな」
おいせっちゃんめ。訳の分からない設定を付け足しやがったな。というか、なんで俺はまた人の下僕にならないといけないんだ。
俺のいない間にせっちゃんが適当な嘘を並べ続けたのだろう。とんでもないことになっていやがる。
「下僕なら一層、離れるべきではないだろう」
男性はごもっともな感想を俺に向かって述べる。せっちゃん、もっとましな嘘をついてくれ。
「それに、何度も言うようだがメガネを外した節さんはそんなこと絶対にしない。さぁ、早く元通りの節さんに戻ってくれ」
「あぁ、もうめんどくせぇ!」
「ちょ、志島! ……克人くん」
俺はせっちゃんのメガネを外した。要するに、この男を諦めさせるにはせっちゃんがメガネを外しても弱気にならなければ良いということだ。
俺は隣に座るせっちゃんの太ももを抓る。さっさといつも通りに俺を罵倒しろ。そうすれば、この男性も諦める。
「痛っ! ……克人くん、痛いです。やめてくださいよ……」
「てめぇ、ちょっと来い!」
俺は今にも机に突っ伏しそうになっているせっちゃんの首根っこをつかんで廊下に引きずり出した。男性には「すぐに戻ります」とだけ伝えたので追ってくることもないだろう。
「あんた、馬鹿なんですか!?」
「……そうですよね、私なんて馬鹿ですよね。教師失格ですよね、人間失格ですよね」
「違う! そうじゃない。あの人の前でメガネを外した状態で強気になれば済む話でしょう!?」
「……はっ!」
「古典的な驚き方をありがとうございます。ほら、解決策はもう分かったんで、さっさと戻りますよ」
部屋に戻ると、男性が不審そうに俺たちを出迎えた。そんな相手のことなどお構いなく、俺はせっちゃんに詰め寄った。
「もう、ご主人様はいつも俺に強く当たるんですから……。もっと俺にも優しくしてくださいよ」
無人のゴール前にいたせっちゃんに完璧なパスを送る。あとは、足に少しでも当てればゴールを奪えるという局面だ。
「克人くん……私そんなことしてない」
「おい、なに手でボール触ってんだよ!」
「え、何……!? どういうことですか……!?」
「こっちの話です」
俺は再度、せっちゃんを引っ張って廊下に出た。キョトンとする男性を置き去りにして。
「あなたは馬鹿なんですか、ハンドって知ってますか!? 反則ですよ!?」
「なんで突然、サッカーのルール説明をしてるんですか……」
「とにかく、俺のことをぶん殴ればいいんです!」
「……そんなことできないです」
俺は先ほど奪ったメガネを、せっちゃんの目の前で割る。手で握り潰すと、割れたレンズが俺の手の表面を切った。流れ出る血潮にせっちゃんは驚き、そして心配そうな目で俺を見る。
「せっちゃん、あなたの本質は何ですか」
「……いきなりどうしたんですか。それより、けがの手当てをしなくちゃ……」
「良いから答えてください」
「……私の本質ですか」
「そうです」
「私は空っぽです。本質も何も……」
「空っぽなことこそがせっちゃんの本質ですよ」
俺が言うと、せっちゃんは死刑宣告を受けたような表情になった。流石に本人も気にしていたことなのだろうか。俺は瞬時にフォローをするための言葉を並べた。
「せっちゃんがせっちゃんたる所以は今言った通り、空っぽな部分です。でも、その空っぽというのは、あくまでもせっちゃん自身についてだけ。周りのことはよく観察して、考えて、気遣って。とても濃密な人間だと思いますよせっちゃんは」
フォローするための言葉であることに違いはない。しかし、俺がせっちゃんと関わって感じ取った紛れもない事実だ。
「でも、せっちゃんは自分のことになるとすぐ空っぽになる。少し前にせっちゃんの家の近くの神社に行きましたよね。あの時だってそうです、五円を俺に渡して、自分の分がなくなる。どんだけ自分のことを考えないで生きてるんですか」
せっちゃんは、何も言わずにただ俺を見ていた。頭の中では今も色々な思考がめぐらされているだろう。
「でも、あの時の断崖絶壁の上でせっちゃんはメガネを外した状態でも、強気な喋りができたじゃないですか」
「あ、あの時は克人君が崖から落ちそうになって、それで……」
「それで、興奮して口調が変わったと?」
「そう……だと思う」
「ここからは俺の単なる推測ですけどね。あの時は自分がしっかりしないとと思ったんじゃないですか? 教師として、年長者として。自分がしっかりしないと誰かが傷つくかもしれない。そう思ったせっちゃんは、しっかりしたせっちゃんになった。あくまでも、他の人が傷つかないように」
「どうでしょう……」
「だから、今試します」
「でも、どうやって?」
「そんなのは簡単なことですよ」
俺は手中のメガネをもう一度強く握った。今度は表面を切るだけではなく、レンズの破片が俺の手に深く刺さった。神経に触れているのか、手から腕にかけてびりびりとした感覚が伝わっていった。
「克人君! なにしてんだ!」
「ほら、やっぱり。でも、まだ足りないですね」
少しだけ、せっちゃんの口調がおかしなことになる。だが、まだ足りない。
「分かりましたから、もうやめて!」
「ダメです。メガネをかけたせっちゃんならもっと強い言葉と実力をもって止めてきます」
まだ足りない。
俺はもう一度、手を強く握った。刺さったレンズに他のレンズがあたり、さらに深く刺さっていく。
「やめてください」
「まだです」
徐々に手に力が入らなくなってくる。だが、俺は握りしめた拳を絶対に開くつもりはない。
「やめろ! 馬鹿か貴様は! 問題になったらどうしてくれるんだって、いつも言ってるだろう!」
俺が割れたレンズを握った拳で壁を殴ろうとした刹那、せっちゃんは俺の手首をつかみ、その手をこじ開けた。俺の血が付くことも気にせず、せっちゃんは俺の手に刺さっている大きな破片を一個ずつ取っていった。
「もう、分かった。確かに志島の言う通りだった。だが、私のためにこんなことはもうしないでくれ」
口調はメガネをかけたせっちゃん。しかし、表情はメガネをかけていないせっちゃんのそれだ。震える手を必死に抑えてせっちゃんは俺の手の傷を確認した。
「せっかくですから、これも利用しましょう」
俺は心配そうな表情を浮かべたせっちゃんを無理やり部屋の中へ連れていく。だが、その途中で俺の意図に気づいたらしく、いつしかせっちゃんが俺の手首をつかんで部屋へと入った。そして、俺の出血を見るなり驚いていた男性の方へと近づく。
「いってぇ、せっちゃん俺の手を自分のメガネで攻撃してくるなんて……」
俺が自分の手をまじまじと見つめながら言うと、男性はあっけにとられていた状態から回復したようで首をブンブンと横に振った。
「う、嘘をつかないでください! 節さんがそんな乱暴なことをするはずがないでしょう!?」
「くっそ、メガネで攻撃されたってことはメガネを外しているはずなのに! せっちゃん、容赦がなさすぎるよ!」
三文の価値さえない俺の芝居にも男性は驚きの表情を継続させていた。そして、俺のセリフ通りなのかをせっちゃんの顔を見て確認する。
「め、メガネ……かけてない……?」
男性は状況を咀嚼するように声に出す。状況の一つ一つを整理していくつもりなのだろう。だが、まじまじと見られているせっちゃんが、それを許すことはなかった。
「おい、何を見ている」
先ほどメガネをかけていた時と全く変わらない声音で、せっちゃんは男性に詰め寄った。
「で、でもメガネをかけていないあなたはあんなにも女性らしい人だったはず……!」
「最初から言っているだろう? これが私だ」
「なら、なぜ最初に会ったときはあんな態度を……」
「それはなぁ、貴様の反応が面白かったからだ」
せっちゃんが口角を上げてにやりと笑う。そうすると、男性は何かの糸が切れたかのようにとぼとぼと部屋を出て行った。
「あれ、きっと女性恐怖症になりますよ。流石せっちゃんですね。相手にあんなトラウマを植え付けるなんて」
「ふっ、いい気味だ……、ってそんなこと言っている場合じゃないだろう!」
「そうですね、これどうしましょうか」
「どうしましょうかって、貴様な……ほら、いつも見たく救急セット的なものは持っていないのか!?」
「流石に、今日は持ってないですね。俺はもう女子力を誇れる身分ではないので」
「確かに先ほどの演技は……ひどかったぞ? 理事長に掛け合ってみるか」
「勘弁してください」
「さて、どうするかだな。幸いレンズはあまり細かくは割れなかったようだ」
「そうですね、後は止血する布さえあればいいんですが」
「仕方のない奴だな。少し待ってろ」
せっちゃんはそう言うと、不意にスーツのジャケットを脱いだ。そして、着ていたワイシャツの袖を勢いよく引きちぎる。
「これで、大丈夫か?」
「せっちゃんワイルドですね……」
「これでも、申し訳なくは思っているんだ」
「せっちゃんには謝罪は似合わな——」
「うっさい、黙ってろ。ほら、次は赤坂のところへ行ってやれ。メールの打ち方が分からなくなっているやもしれんからな」
せっちゃんはそういうと、俺の手にワイシャツをきつく巻いた。白い腕を露出したせっちゃんを眺めていたらとても睨まれた。さっさと悠陽のところに逃げ込むとしよう。




