家庭の情事③
「失礼します」
はーい、という優し気な悠奈さんの声を聞き届けてから入室すると、そこにはすでに四人の姿があった。テーブルを挟んだ片側には、制服姿の悠陽、おしゃれな白いワンピースを着た悠李ちゃん、そして、悠奈さんの姿。その反対側には、肩幅が広く、肌をこんがりと焼いている男性の姿があった。
「あら、あなた! 遅かったじゃない!」
悠奈さんは楽しそうに俺を手招く。黒っぽいズボンい薄いピンク色のニットを着ている悠奈さんはわざとなのか、袖を手の半分ほどまで伸ばしていた。あざとすぎるが、似合っているので文句の言いようがなかった。
「ごめん、おまたせ」
キャラ設定を考えていなかった。明らかに年上である悠奈さんにため口というのはいかがなものかとも思ったが、結婚前提で付き合っているということらしいので、あくまでも対等という体を取る。嬉しそうに笑う悠奈さんを無視しつつ隣に座ると、正面の男性が俺を威嚇するような口調で話しかけてきた。その主な原因は、腕を絡めて密着してきた悠奈さんのせいだ。娘の前で何してんすか。
「んあ? てめぇが悠奈の言ってた新しい旦那か? ふっ、ガキやないか」
言われなくても十分自覚があるから、わざわざ言っていただかなくとも大丈夫だ。
「悠奈さん、なんでこんな奴旦那にしてたんすか」
「若気の至りって奴かしらねぇ?」
心の声が漏れてしまっただけなのだが、悠奈さんは律義に答える。だが、それ以上に過剰な反応を見せたのは勿論、正面に座る男だ。
「こんな奴とはなんや! お前よりは数段マシじゃボケが! お前みたいなクソガキが、悠奈を幸せにできるわけないやろ!」
「大丈夫。克人くんは私が一生養っていってあげますから!」
やったぁ、俺のジョブがヒモになった。悠奈さんの隣に座る悠陽が若干俺を睨んでいる気がするのは気のせいだということにしたい。悠李ちゃんが楽し気に笑っているのが、唯一の救いだろう。
「女の一人も守れない奴に悠奈を渡す訳にはいかんわ」
「守れない奴っすか……」
先ほどまではおどけて俺を睨んでいた悠陽だが、男の言葉がどうやら堪忍袋の緒に引っかかってしまったようだ。
「あたしたちの前から姿を消して、他の女のところに行って、そして今ここにいるってことはその女のところからも逃げてきた」
いつもの軽快な口調はなりを潜め、悠陽は俯きながら、言葉を一音一音紡ぐようにして発している。
「守れない、なんて言葉がよくあなたの口から出てくるっすね。結局、誰一人として守れてないじゃないっすか。お母さんも、悠李も、私も」
「そうなのです! 克人お兄さんは私たち三人を手籠めにする甲斐性があるってお母さん言ってた!」
「ちょっと、悠李ちゃん!? ……ていうか、悠奈さん!?」
せっかく悠陽がしんみりとした真面目な空気を作ったのに、悠李ちゃんが全く気にせずに破壊した。そもそもの元凶とみられる悠奈さんは、両手をほほに当てて、ぽっ、と頬を赤らめている。
「悠奈さん? 教育上よろしくないんじゃないですか?」
「……ごめんなさい」
俺は悠奈さんの頭を思いっきり掴む。流石に娘二人の前で本気の説教をする訳にもいかず、笑顔を心掛けて心ばかりの注意を付け加えておいた。
「ごめんなさい、そうよね。私がこんな親だから悠陽が勉強のしない子になってしまったのよね……。そうよ! 全部私が悪いの! この人に逃げられたのも、悠陽がこんなにも頭の弱い子に育ってしまったのも、全部私のせいなのよね……」
「お母さん……。お母さんは悪くない……って、ちょっと待つっす。あたし今、親にも馬鹿にされてるっすか?」
「俺に聞くなよ」
——ヴゥ―、ヴゥ―、ヴゥ―。
例のお告げだ。俺は、すでに作業となりつつあるセリフとともに、部屋を後にした。背後から聞こえる悠奈さんの「克人君も私から逃げていくのね……」という声を無視して。
携帯の画面を確認すると、そこに書かれていた差出人は美樹であった。
『拝啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
さて、現在私は父にあなたの要件を詰問されております。
つきましては、早急に助けに来ていただけますと幸いです。
時節柄、いっそうのご自愛のほどをお祈りいたします。
敬具』
美樹らしいと言えば聞こえはいいが、この子はメールを出したことがないのだろうか。茂さんの目を盗んでこの文章を書きあげていたかと思うとシュール極まりない。
俺はご要望通り、早急に美樹の待つ部屋へと戻った。
「すみません」
「いやいや、気にしていないよ。それより、体調の方は大丈夫かい?」
俺を気遣う茂さんは美樹への愛さえ除けばやはり立派な人のようである。しっかりと、冷静に主張すればきっと理解をしてくれるはずだ。
せっちゃんと悠陽の部屋へ行ったせいで、何を言うべきか忘れかけていた。このシステムのウィークポイントをまざまざと見せつけられたところで、俺は思考を美樹用のものへと戻した。
美樹の周りから友達、ただの同級生でさえも排除しようとする茂さん。隣に座る美樹は今まで植え付けられてきた固定概念なのか、茂さんには簡単に歯向かうことはできない。
数秒待っては見たものの、やはり美樹から言う出すことはできそうにない。やはり、俺は役割を果たさなければいけないようだ。
正面に座る茂さんは優し気な表情ながらも、瞳の奥には俺の姿がずっと写っている。俺がスーツを着ていること、わざわざ呼び出していること。俺を疑うには十分すぎる状況だ。
だが、俺は日和れない。奨学生部で頼まれたことをしっかりと思い出し、茂さんに伝えよう。
「娘さんを俺にください!」
……俺、何か間違えたか?
妙な静寂が部屋を包み込んだのは、数秒のことだったかそれとも数分のことだったか。茂さんが絶句するのはまだしも、隣にいる美樹までもがぽかんと口を開けていた。あ、俺間違えたんだ。
冷静になって自分の言葉を思い出すと、すぐさま間違いに気づく。俺は美樹の彼氏役になるという話で、結婚云々は、あ、そうだせっちゃんのところかそれは。そりゃ間違えるだろ。こんなにも複雑な状況でかつ慌てているのだから。
「も、もう一度言ってくれないか……?」
しかし、美樹の言っていたショック療法というのは意外と効果があるようで茂さんは言葉がのどに詰まってむせ返っている。
「っほん。志島君もう一回言ってもらえるかな?」
「娘さんを俺にください」
聞き間違いだと信じたかったらしい茂さんは俺に笑顔を向けた。確かにここで引き下がるのも一つの手だろう。だが、ここで愛想笑いでも浮かべれば、振り出しに戻る。せっかく見えた突破口をみすみす逃してやるほどの余裕は俺になかった。
「ならば、答えは一つ。ダメだ」
「なぜです? 自分でいうのもなんですが、俺はそこそこ能力が高いと思います。将来、美樹さんを養っていく自信があります」
「ダメだ」
「確かに俺はまだ学生という身分です。ですので、俺のこの要求が実際に叶うのは何年も先になるとわかっています。でも、俺は今この段階で自分の気持ちを伝えたいと思ったんです!」
「君が学生だとかそういう問題ではない」
「ならばなぜですか」
「前にも言っただろう! 美樹は私のお嫁さんになるのだと!」
「あれ、マジだったんですか」
「おかしなことを言うな。私がそんなことで嘘をつく必要はないだろう」
俺と茂さんの言い争いを、隣に座る美樹は何かを考えるようにずっと黙って聞いていた。
「お父様! 父と娘は結婚できないんです!」
ここにきて、何とも言い難い絶叫だった。まさか、うちの学年トップ成績の奴がこんなこと叫ぶとは。
「……何を言っている! そんなこと誰が決めたと言うんだ!?」
「国じゃないでしょうか」
割って入るのもどうかとは思ったが、美樹は相当意気込んでいたらしく肩で息をしており、お耐えることができないでいた。俺が代わりに茂さんに答えると、部外者は引っ込んでろ、と睨まれる。眉間には深いしわが刻まれていた。しかし、ここでひるんでいては、いよいよ俺がここに来た意味がないというものだ。
「茂さん。娘さんを愛するのはとても大切なことだと思います。会話のない父娘よりもよっぽどいいのは言うまでもありません。ですが、あまり娘さんに干渉しすぎるのはどうなんでしょうか」
「だが美樹は小さい頃、私と結婚すると約束してくれたんだ」
「それでは、美樹のお母さん。いえ、あなたの奥様はどうなるんです。ちなみに日本では重婚も認められていませんよ」
「ぐ……。美樹がこんなにも優秀に育っているのだから、きっと奥様も素晴らしいお方なのではないですか。そのような方と結婚していながら、素晴らしい娘さんとまで……というのは、少し傲慢すぎというものですよ」
「だが……! ならば、美樹は誰が守っていくというんだ」
「それは、安心してください。美樹さんは俺がしっかりと守っていきますから」
茂さんは、ゆっくりと目を閉じた。何を考えているのかまでは伺い知れない。だが、眉間に寄っていた皺は次第に薄れていく。茂さんが、ゆっくりと目を開いたのと同時に、この部屋をノックする音が響いた。
「失礼いたします」
上品な声音とともに入室してきたのは、青い髪を腰近くまで伸ばしている女性。ドレスとまではいかないが、白い、煌びやかでいて、上品な服を着ていた。
「初めまし。わたくしは青山 美津子、美樹の母でございます。娘が、いえ娘と夫が大変にご迷惑をおかけ致しました」
俺のすぐ隣まで静かに歩み寄ってきた美津子さんは、畳に手をつき深々と頭を下げた。美樹が年を取ればきっとこうなるのだろう。いや、年を取るという表現が似つかわしくないくらいに、美樹のお母さんはきれいな人だった。
「いえ、気にしないでください」
美人への耐性はついたと思っていたのだが、種類の違う美人に俺は少し声が浮ついてしまった。美津子さんは、頭を上げてからにこっと笑う。そして、夫である茂さんの方へと向き直った。
「私が美樹とあの家を出た理由がやっと分かったようですね」
静かな口調だ。だが、言葉の一つ一つに重厚な響きが備わっているような気がしてくる。
「あなたは、美樹に干渉しすぎです。美樹もいい大人なんだから、もう少し子離れをしないと。だからあの家を出て美樹を彩華学園に入学させました。それでも、あなたの美樹に対する拘束は強まるばかり。間違いだったかと、何度も悩みました」
美津子さんは次に身体ごとこちらに向き直き、一呼吸置いた。
「ですが、私の判断は間違いではなかった。偶然と言ってしまえばそれでおしまいですが、志島克人君、あの学園にはあなたがいた。私が今まで何度言ってきても聞かなかった主人が、今こうして自分の行いを省みている。すべては、志島君のおかげです。本当にありがとう」
美津子さんはもう一度俺に頭を下げた。面と面を向かい合わせて言われるお礼というのはこんなにも気恥ずかしいものだっただろうか。
美津子さんが言葉を止めると、今度は茂さんが下げていた視線を上げ、こちらを向いた。
「……うちに来た時に何かはあるのだろうと思っていた。いや、私はもっと以前から気づいてはいたんだ。美樹がいつか私の元から去っていくということを」
茂さんはぽつりぽつりと言葉を絞り出した。ここまで一番の当事者にもかかわらず蚊帳の外にいた美樹は、やっと呼吸を整えられたのか隣にいた俺の手を取った。
「志島君、ありがとうございました。本当に」
美樹の瞳は珍しく潤んでいる。だが、感動シーンで終わるわけもなく無情な音が俺のポケットから響いた。
——ヴゥ―、ヴゥ―、ヴゥ―
「志島君、それで美樹との挙式の件だが。私としては盛大に執り行いたいと思っている」
「あとは私とお母さまで何とかしておきますから、他のところに行ってあげてください」
「すまん助かる」
美樹は俺にだけ聞こえる声で、小さく呟いた。片手で謝意を伝えて、俺は腹を抑えながら部屋を出た。去り際に聞こえてきた「嘘で終わらせなくていいですからね」という美津子さんの声を置き去りにして。新たな面倒ごとが生まれてしまったような気が……ことの発端は俺の言い間違いのせいか。




