夏休み⑪
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海風の当たる岩場の上で、私たち二人は腰を下ろした。神社に参拝した帰りには必ずと言っても良いほど母に連れられてきた断崖絶壁の上で、克人君の持ってきていたビニール袋を敷いて座っている。岩場がお尻に突き刺さって痛い。けれど、ここで座る母が文句を言っていたことはないので、ここではそれが当たり前なのだろう。
「ここですか?」
「はい……。ここは私とお母さんの思い出の場所なんです」
先ほどまでかけていたメガネは先ほど無造作にポケットへとしまった。本来であればレンズに傷をつけたくないのでやらないが、あのメガネは別に私のものではない。昨日、恩師にメガネを取り上げられ罵倒された挙句、気づかぬうちに交換されていたのだ。家に置いてあったメガネもなぜか同じように取り換えられていた。仕方なくそのメガネで過ごしていたのだが、それがこの無様を生んでいる。
目の前の少年は心底面倒そうな表情を浮かべていた。
「いつものメガネせっちゃんになってくださいよ。外でその状態は扱いに困ります」
「ごめんなさい」
「そこは、『うるさい黙ってろ』くらいでいいですよ」
克人君はへらへらと笑いながら私をからかう。年下のはずなのに私よりも幾多の経験を積んでいる男の子。私にとっては生徒のはずなのに。しっかりしなければならないのに、少年は私の心を見透かすようにこちらを見ていた。
「克人君はどうして、そんなにいろいろとできるんですか」
「別に好きでできるようになった訳じゃない。やらなきゃ、できなきゃいけなかったんですよ」
少年は能力におごることなく、さも当然といったような面持ちで話してくれた。勿論、事前に学園長からはある程度の事情や彼の苦労は聞かされていたし、同情もしている。しかし、彼本人から発せられる言葉には悲壮感のかけらさえも浮かんでいなかった。
「小学校の卒業までは母の知り合いと一緒に住ませてもらっていたんです。でも、忙しい人で、家に帰ってくることも少なかった。だから、ほぼほぼ一人暮らしをしていたようなものなんですよ。そこで家事は身に着けましたし、大人との渡り合い方も頑張って勉強しました」
私が同じ境遇だったらどうしていただろう。家事一般はできるようになっていたのかもしれないが、きっと外の世界との関りは断絶していたはずだ。身近な大人の言うことを聞いて、その通りに動いていた私の人生。繰り人形の私から操り手を奪えば、私の体は地面に投げ出されていたはずだ。私は空っぽ。だからこそ、目の前で水平線の向こう側を見るように目を細める少年が輝いているように感じられた。
「私みたいなのだったら、絶対に生きていきません。私みたいに芯のない空っぽの人間には克人君のような向上心をもつことはできないと思います」
なんとなく住む世界が違っているような気がして、その現実から目を背けるように星空を眺める。私には絶対にできない。そんなことを考えていると、ふと目頭が熱くなったような気がした。
「ご、ごめんね。克人君のことを考えてたら少し悲しくなってきて。克人君は本当に偉い子です。みんなに頼られて、慕われて。私とは大違い」
半分は嘘だ。私のこの感情は、私に向けられた絶望をも包含している。だから、私はそれを必死にごまかすように、誰かに私が空っぽでないことを証明してほしくて、意図せずこんなことを話してしまった。
「私は克人君の先生です。だから、授業中に寝ていれば注意をします。授業をサボっていたら教室に戻るように促します。でも、私は先生であると同時に克人君の友人でありたい。だから、辛いことや困ったことがあれば私に相談してくださいね」
克人君からすれば急にどうしたと驚いているだろう。だが、ここは彼の良いところで、真摯にこちらを向いてくれた。
「ありがとうございます。なら俺も生徒である前にせっちゃんの友人ですよ。ま、せっちゃんに頼ってどうこうなる問題なら、自分で解決できますけどね」
「克人君ならそういうと思っていました」
そう。彼の言っていることは事実だ。私なんかよりもずっと色々な問題に直面してきているのだ。私なんか頼らずとも自分でどうにかできる。
しかし、人と向き合うことをしてこなかった私だが、今の彼の表情は見たことがあった。恩師が私に浮かべ、母が私に浮かべ、そして克人君が悠陽ちゃんや美樹ちゃんに向けるような微笑み。その笑みに私も安堵感を覚え、同じく微笑みを返す。きっときれいには笑えていないのだろうが、彼は満足そうに私から視線を切り離した。
「こんなところにいたっすか!」
何とも言えない空気間をぶち壊しに、いや壊してくれたのは奨学生部で一番活発な女の子、悠陽ちゃんであった。
岩場であることなどお構いなしに全速力で駆け寄ってくる陸上少女は断崖絶壁すぐ近くの私たちのもとへと一目散に寄ってくる。
スピードを落とさずに走ってきた少女は、目の前の岩を跳び越え、次の岩に足を取られた。本来ならありえないのだろうが、彼女が履いているのは浴衣に合った草履であることも原因なのだろう。しかし、足元を攫われたにも関わらず、その勢いは落ちることなくむしろ上昇したようにも感じられた。
目の前でコマ送りになる光景に思考は不思議なくらいに冴えている。悠陽ちゃんが絶壁に向かっていること、誰かが受け止めなければいけないこと。でも、私の体は思考に追いつかない。目の前を通り過ぎていく悠陽ちゃんを受け止めるべく手を伸ばすも、彼女はその十センチほど先を通過していった。その身体を目で追うと例の男の子は既に立ち上がり、悠陽ちゃんに身体を当てようと勢いよく跳び出している。
いよいよ悠陽ちゃんの身体が断崖から飛び出そうとした刹那、この少女は自らの筋力をもってして空中で一回転し、岩場のぎりぎりで着地した。
「ふっー。流石に焦ったっす」
「え!?」
着地するや否や額をぬぐった悠陽ちゃんに一番の驚愕を表したのは、救出のために飛び出していた克人君である。
悠陽ちゃんに激突しそうになった克人君は、その安全を確認しさっと軌道をそらした。悠陽ちゃんに当たらないよう、自らが絶壁へと向かう形で。
「危ないっす!」
悠陽ちゃんが叫ぶも、その身体は動いていない。自分のことで手いっぱいだったのだろう、無理もない。克人君はそのまま悠陽ちゃんの横を素通りし、崖の下へと落ちて——。
ぱしっと何かをつかむ音が聞こえた。目の前には岩場に打ち付ける波と少年の姿。よく見ると、少年の手は私の手を握りしめている。岩場がお腹にめり込んで鈍痛を誘うが今はかまっている暇はない。
「良く間に合いましたね」
少年は心底感心したようにそんなことを言った。自分でも驚きである。なぜ、あのタイミングで間に合ったのか。それは、偶然止まった悠陽ちゃんを躱すため、落下地点が私の近くになっていたから。私が克人君を守ろうとしていたから。いくつも理由は思い浮かぶが、今は考えている場合じゃない。じりじりと、自分の身体が空中へと引きづりこまれていく。
「せっちゃん。多分ここから落ちても死にはしないと思うんでパパっと手を放しちゃってください」
少年は真剣に言っているようで、すでに私の手を放している。私の微々たる握力では六十キロは超えるであろう男性を一人で支え続けることはできない。しかし、ここで離しては、いよいよ教師として失格だ。加えて、恩師との約束もある。
「くっ……」
「せっちゃんまで落ちますから。ほら早く!」
克人君はあくまで冷静に私に促す。だが、私に離すという選択肢はない。じりじりと私の腕をすり抜けていく大きな手。完全にそのつながりが途切れようとした瞬間、私の左右からそれぞれ一本ずつの影が伸びてきた。
「すいませんっす! あたしのせいっすよね」
「志島君、以前、言いましたよね? 無茶はしないでと」
奨学生部女子二人は片手で克人君の腕を力いっぱい握り、もう片方の手で私のことを支えていた。
「せっちゃん、引き上げるっすよ!」
「せっちゃん先生、ちゃんと力入れてください」
悠陽ちゃんの号令に合わせ、私たち三人は力を入れなおす。崖に近づくと、克人君は自らの手を岩にかけて、体を持ち上げるのであった。
「ごめん、助かった」
「いや、今回の件についてはあたしのせいっすから」
「危ないことは本当にやめてください。ほら、せっちゃん先生も何か言ってくださいよ」
美樹ちゃんが私に促して、悠陽ちゃんと克人君が申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「みんな、ありがとう」
「なぜ、先生がお礼を言うんです?」
私の言葉を意外に思ったのであろう美樹ちゃん。怒られなかったことに安堵を覚えている悠陽ちゃん。そして、私の考えなどお見通しとばかりに笑っている克人君。
そんな彼ら友人に、私は胸を張って声を上げた。
「貴様ら、いつもいつも問題を起こしてくれやがって。私の教師人生に泥を塗るなとどれだけ言えばわかるんだ」
目の前にいる少年少女は一瞬、驚愕の表情を浮かべたものの、すぐに普段通りの表情へと戻っていた。
私は心の中で再度、三人にお礼を告げる。
私は確かに空っぽかもしれない。でも、こんな私を受け入れてくれた友人がいる。ならば、私もできることをやってみよう。恩師が私を導いてくれたように、私も彼らを導こう。
心の中で決意を固め、ポケットに入っていた異物を取り出した。
「ケガはないっすか?」
「せっちゃん先生も気を付けてください。この部活には危なっかしい人が多すぎます」
気遣いを見せる少女たち。そんな少女二人を優し気に見つめる少年は次に私の方に視線を移した。
「せっちゃんにはもう、メガネはいりませんよ」
「あぁ、そうだな」
オレンジ色の光さえもがすべて消え去っていくなか、街頭の明かりが次第に灯っていく。
私たちが買ったお好み焼きとたこ焼きを四人で食べながら、海を見る。街灯の光に多少照らされた程度の光ですべてを見ることはかなわない。
——教師になってよかった。
私は初めて浮かび上がった思いを噛みしめながら、この若者たちを見るのであった。
*
せっちゃんの家の手伝いから早数週間。なんだかんだで活動をしてこなかった俺たち四人は、あれ以来初めて部室に集まっていた。
「ここの問題が分からないっす……」
「ここはですね。この公式を使って解いてみてください」
宿題が終わらないらしい悠陽は先ほどから美樹に助けを乞い続けているのだが、美樹は嫌な顔一つせずに応対をしていた。
そして、せっちゃんはというと。
「……はぁ。そうですよね、教師である私よりも、美樹ちゃんの方に教えてもらった方がいいですよね……」
「せっちゃん。あの日、めちゃくちゃかっこいい声で『あぁ、そうだな』って言ってましたけど、結局これっすか」
「あの日は何というか、調子が良かったというか、調子に乗っていたというか」
結局このありさまである。メガネをかけて部室に登場したせっちゃんは、すぐさま悠陽にメガネを奪われいつも通り。
人間はそう簡単には変われないのだろう。
俺たち奨学生部は今日もエアコンの効いた涼しい、居心地の良い世界でひたすらに時間を浪費するのである。




