サボリ魔 その2
「おい」
俺の眠りを遮ったのは、そんな二文字だった。
「私の授業はそんなにつまらないか?」
「いえ、先生の声が心地よすぎてついうっかり意識が飛んでました」
人間とは不思議なもので、思ってもいないことを瞬時に言えるものである。そうは言っても、それを相手が納得するかどうかは別の問題で、無論せっちゃんはまるで納得していない。
「まあいい。志島、テストからマイナス百点、と」
「すいませんでした」
満点以外はマイナスで計上される訳か。鬼がビビるレベルの鬼畜っぷりである。
「反省の色はあるようだな、謝罪は受け取ってやる」
「じゃあ、テストの件は……」
「マイナス三十点で勘弁してやる」
それは本当に勘弁しているのか。
「さて、授業に戻るか。おい志島、憲法二十五条にはなにが規定されている?」
「分かりません」
「貴様、私を舐めているのか? マイナス十点」
この人は千点満点でテストを作るつまりなのだろうか。点数の価値を低く見積もりすぎだろう。
こんなやり取りに慣れたクラスメイトは全く気にせず、黒板に書かれたことをノートに書き留めてるし。こんなに長い時間あってまだ板書してるとか、どんだけ黒板に書いてんだよこの人は。
「また後で聞く。それまでに腹を決めておけよ? 今日は十一日か、よし出席番号四十番」
常人には計り知れない公式によって導き出された答えを聞いても、指された男子生徒はもちろん、誰も驚くそぶりを見せない。
日付の確認は単なる序言葉である。慣れとは非常に怖いものだ。
「憲法二十五条に規定されているのは?」
「生存権です」
中学校でも一応は習うレベルの質問。健康で文化的な最低限度の生活を、ってやつだ。覚えているかどうかどうかはともかく、聞いたことはあるだろう。
だが、せっちゃんはこの回答では満足しないらしい。
「半分正解だが、足りないな。おい志島?」
「国の社会的使命」
「チッ」
「今舌打ちしただろ」
「なんのことだ。それとな志島、目上の人と話すときは、です、ます、をつけろと習わなかったか?」
「すいませんでした」
「マイナス十点」
このままいくと結局累計で百点に到達する。勘弁してくれ。
もう、難癖のレベルを超えているだろう。
こんなくだらないやり取りをしているうちに、教室には授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
「もうこんな時間か。おい志島、黒板消しとけよ?」
「なんで俺が。そういうのは日直の仕事でしょうに」
「マイナ——」
「謹んで拝命いたします!」
「よろしい」
そう言うとせっちゃんはニヤッと笑い、教室を出ていった。
「くそ、せっちゃんめ。今日の部活で絶対にメガネ外したるからな」
俺はせっちゃんに絶対聞こえないくらい小さな声で呟き、真っ白になった黒板に向かった。
「俺も手伝うぜ!」
そう言って、もう一つの黒板消しを持ったこの男は矢田 真。俺と同じ二年一組に所属するスポーツ少年である。
サッカー部に所属しているこいつには以前発生した、両想いの癖に俺たち奨学生部を巻き込んだ正統派ラブコメを織りなしやがった神崎さん事件の際、内藤先輩へのアポ取りに協力してもらった。俺の適当な理由もすぐに信じてくれる御しやす……、素直ないい奴だ。
「緑川先生が奨学生部の顧問だったとはな。お前があそこに入ってから、緑川先生の志島いびりにも磨きがかかった気がするのは気のせいじゃないよな。 お前、なんかしでかしたのか?」
「なんもしてねぇよ。むしろしでかされてるくらいだ」
俺の言葉に偽りはないが、普通の生徒にはあそこにいる三人を完璧だと妄信している節がある。まぁ、俺も奴らと関わる前まではそう思っていたうちの一人なのだが。
「ま、お前の場合はあそこの部活に入る前も標的にされてたか。にしても、さっきの問題よく分かったな」
「たまたま知ってただけだ」
「そうだろうな」
口を動かしずつ消し続けた黒板が、やっと本来の深緑の様相を取り戻したころ、今度は授業開始のチャイムが聞こえてきた。
「もうこんな時間か……。じゃ、俺はいつものところ行ってくるわ」
「あと一時間で昼休みなんだから、もう少し頑張れよ」
苦笑しながら言う真も本当に引き留める気はないらしく、素直に俺を送り出す。
「昼休み前だから、な」
俺はそうとだけ言って、なぜか毎朝クラスに届けられている誰が読むわけでもない新聞紙を手に取っ た。
そして、いつも通りロッカーの中に入っている運動靴と、今はいている上履きとを取り換える。教科書を必要としない俺だけに許された裏技だ。
俺たちの二年一組があるのは二階。窓を開け、外を確認。数メートル下には中庭が広がっており、十分間の休みに外へ出ようという兵はおらず人影はない。
運動靴を履き、窓枠に手と足をかける。流石に廊下に出た途端に、次の授業を担当する先生と鉢合わせるなんてことは極力避けたい、というより絶対に避けなければならない。
俺は、教室へ入ってくる先生の気配を感じつつ、足にぐっと力を込めた。
俺の姿は教室から瞬時に消えたはずだ。
クラスメイトはこちらを一瞬見たものの、特別気にすることはない。
「相変わらず、とんでもない運動神経だな」
ふざけた笑みを浮かべつつ、真は俺が開けた窓をそっと閉める。そんな彼に目で感謝の意を示した俺は、いつものベンチへと向かった。




