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戦神子と六人の彼  作者: 火渡ユウ
三ノ彼 幻《まほろ》
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三話 戦神子、死す

 ばば様は、お茶を用意して待っていた。そして冷める頃に、柚葉が帰ってきた。

 肩をすくめ、心ここにあらずといった様子で、顔は擦った跡でほんのり赤く染まっている。


「さぁ、座りなさい」


 放心状態の柚葉を、椅子に座らせる。温かい茶を出すため、暖炉の中の鍋に手を出したとき、弱々しい小声が(まほろ)の死を否定した。


「彼の死を見てないから……信じませんから」

「そうか。しかし、それならば奴も哀れだな」

「幻を知っているんですか?」


 振り返り、鍋を揺するばば様を凝視する。

 先程も、「此処に導いた者が」と言っていたが、それが誰なのかわかっていて教えてくれたのだろうか。


「それに、あなたたちは一体……?」


 この老婆が様付けで呼ばれ、皆の者に頭を下げさせる程の地位にあるのはわかる。いや、それしかわからない。

 おたまで茶を掬い、木製のコップに入れ、長くなるぞ、と前置きを入れてからそっと柚葉に差し出した。


「我らは、万世(ミリオンワールド)の守護者。万世とは、数え切れないほど存在する世界の総称である。そなたが住んでいた世界、召喚された世界もまた"万世"の一つだ」

「ここは、召喚された世界じゃないの?」


 ばば様が向かいに腰掛ける。愛用している杖を床に置き、湯煙の出るお茶をずずっと一口飲み終え、ふぅ、と息をついた。


「否、別世界だ。そして此処も万世の内の一世界だが、万世と唯一繋がれるのはこの世界のみ」

「……繋がる?」

「往来ができるということだ。他世界は、理によって万世間の往来は不可能。そう、不可能だったんだが――」


 次第に暗い表情に変わるばば様に、柚葉は幻の言葉を思い出す。


『貴女の生まれた世界で生きた人が、異世界に来たことでこの世を乱した』


 そう、不可能と言われることをやり遂げてしまった人がいた。それが、柚葉の元彼であり、四年前に亡くなったとされている櫂人(かいと)だ。


「それは、そなたの生まれた世界を守っていた者が亡くなり、次の者へと継承する最中に起きた出来事のため、我らにも事態を引き起こした責任がある。加えて、召喚された世界に棲む神も眠りについていたため、その二世界の境界線が緩んだのだ」


 柚葉にとっては、信じられない話だ。もし召喚されず、幻に導かれなければ知ることのなかった世界の事実を、常人の頭で無理やり理解するしかない。けれど、肝心な幻との繋がりがまったく見えない。


「神は我らを責め、怒りの矛先を自らの世界に向けた。神を崇高する世界を作り、人が神の為に生き、神の為に働き、神に言われようものなら死ぬことさえ躊躇わない。それは、人の自由を奪うことから禁じられた行為だが、一国に留めさせるのが限界だった。それが、あの世界のパルテノン帝国だ」


 神様が寝ていたのが悪いんじゃないか、というか何で寝ていたのか。突っ込みを入れたくなるが、これ以上話をややこしくしたくないので、口に出さなかった。代わりに、今一番訊きたいことを質問する。


「それは幻と、どう関係があるの?」

「幻は我らを率いる族長であり、召喚された世界の守護者でもある」


 柚葉の頭は、疑問符で埋め尽くされる。だが、首を傾げてもそれ以上に理解しやすい説明はないのだろう。その容量の少ない頭で導きだしたのは、櫂人は幻が守っている世界へ行き、幻の守る世界には寝ていた神がいるということだ。神を崇高する国がパルテノン帝国であり、神の命によってアゼ―レ超大国に侵攻したのだろう。


「彼の者は犯した過ちを償わなければならない。一度開いた穴を防ぐのは、容易いことではない」


 幻は、万世の守護者として責任を取るために、柚葉が召喚された世界の神、古の神(オリエント)に身を捧げるよう監視しつつ、先導していたという。

 事態を起こした張本人と近しき者、二人の命を捧げれば、神崇高行為を止めるという条件だったらしい。


「私が、櫂人の罪を償うよう、見張っていたんだ……」

「そう、それですべてが解決するはずだった」


 だが、柚葉を守るため、幻が代わりにパルテノン帝国に行き、柚葉を古の神が干渉できない流星郷(バースプレイス)へと誘った。


「我としては、そなたをあの世界に返し、贄になってこいと言いたい。だが、幻が命を懸けて守った、追い出すことはよそう」


 悲しむように、俯いたばば様は、ふと息を漏らした。


「幻に会える方法を、教えてください」

「会える、方法だと?」


 顔中に皺を寄せ、柚葉を睨むように見つめた。

 口にしても、いくら本気でも、それが叶わないと頭ではわかっているけれど、訊かずにはいられない。できるならパルテノン帝国に行って真相を確かめたい気持ちもあるが、ばば様が嘘をついているようにも思えない。信じたくないが、幻が柚葉の為に贄となったなら、なおさら会いたい。会って、伝えたいことがある。


「方法はあるが、薦めない」

「どんなことでもします!」


 勢いよく立ち上がり、テーブルに身乗りして答えた。

 一挙一動を冷静に見上げると、ばば様はテーブルの上に置いてある、食器用のナイフを取った。だが、ナイフを使うような食べ物などここにはない。その行動を観察していると、ばば様の目付きが変わった。

 ナイフは一直線に柚葉の左胸へと突き刺さる寸前で止まる。思わず、ぎゅっと目を瞑った。柚葉の心臓が止まりそうになる。

 後になって、背中に冷や汗が流れる。鼓動が早くなるのが直にわかるくらい、体中を血が駆け巡る。


「どんなことでも、するんじゃないのか?」


 ナイフを下ろすと、ばば様は再び腰を下ろした。が、手には凶器が握られたままだ。

 自然と拒否反応を起こすより早く、胸が、その奥にある心臓が鋭利な刃物に貫かれそうになったことを自覚すると、力無くした柚葉もまた、椅子に座った。ナイフを持った皺の寄った手の動きをじっと見ながら。


 呼吸を落ち着かせながら、柚葉は考えた。何で、ばば様は殺そうとしたのだろうか。あの目付きは、勘の鈍い素人でも恐怖に慄く程の殺気を纏っていた。

 いや、もしかしたら幻と会うことに大した意味はないのかもしれない。今は考えていても答えが出ないため、他に気になることを訊いてみることにした。


「考えてみたけど、幻は悪いことを何にもしていないと思う。どうして、神は幻に責任を問うの?」


 ばば様の話を聞いている限りでは、幻は二世界の境界線が緩む行為に干渉していない。一世界は、亡くなった守護者から次の守護者への継承最中、一世界は神が寝ていたために起きた出来事だ。


「……実は、幻は――」


 次の瞬間、前触れもなく入口の幕が上がり、青ざめた顔色をした一人の男性が駆け込んで来た。


「ばば様、大変です!」

「何事だ?」


 血相を変えて飛び込んできた民は、荒い呼吸を整うことなく、続けて答えた。


「反逆者が来て、次々と民を――」

「……くっ」


 杖を持ち、ばば様は男に向かって「来い」と告げた。


「わ、私も行きます!」


 ここは幻の生まれ育った場所だ。状況はわからないが、二人の焦りようから只事ではなさそうだ。幻のためにも力になりたいと思い、柚葉も立ち上がる。しかし、男によって制される。


「無理だ、今のあんたは――」

「そなたも来い」


 振り返りもせず、ばば様は入口の幕を上げて外へと出た。


「ばば様!」


 慌てて後をついていく男を追い、柚葉も外を出た。

 するとそこには、一変した風景が待ち受けていた。民の皆が、地面に伏している。その中心には、黒いフードを深く被った人が立っていた。細い体格からして、女性だろう。

 全身を黒いコートで覆う様は、セシール王国の闘技場で襲ってきた男を彷彿させる。

 ばば様は辺りを見回すと安堵し、一息ついた。


「皆、生きている。眠らされているだけだ」

「そうよ、私の狙いはこいつらじゃない」


 すると、殺気を纏った視線が柚葉を捉える。ばば様に刺されそうになったときよりも、明らかに強い殺意を向けられている。


「あなたは、ケイルの、仲間?」


 恐怖に負けじと、柚葉は訊いた。すると、嘲笑うかのような甲高い笑い声が響く。


「奴は、(りん)。幻の妹だ」

「いいえ、マリアよ。その名は、母が死んだときに捨てたのだから」


 声音は冷たく、言葉には怒りが込もっている。フードを被ったまま、マリアは此方に近づいて来る。


「あんたを殺して、幻を殺す!」

「お前の兄は死んだ。神の贄になったことは知っているだろう!」

「そうよ、誰かさんのせいで、私の手で殺すことは叶わなかった。けどね、あんたを殺す! あんたを殺せば――」

「わ、私?」


 眉間に皺を寄せ、柚葉は怪訝そうに睨む。


「私が死ねば、幻に会えるの?」

「惑わされるな、凛の復讐だ! 幻とは関係ない!」

「ばあさんは、まだ教えてないのね」


 呆れたようにため息をつくと、フードを上げ、コートを脱ぎ捨てる。すると、純白のシルク生地に、血の華が点々と咲いているようなマーメイドドレスを着た美女が現れた。赤いヒールを履き、腰には似合わないレイピアを携えている。ウェーブのかかった茶髪を横にまとめ、柚葉たちを見下ろした。


「どうせ死ぬのだから、意味ないわね」


 その様は、まさに悪魔の微笑み。


「地獄へ落としてあげる」


 レイピアを抜き、柚葉に向かって駆け出した。


「柚葉、下がれ!」

「大丈夫! 【水の気:水流(アクア)――」


 そのとき、いつもならとっくに水膜が柚葉を守るために張られているのに、何も起こらない。気が集まる気配もない。


「さようなら、役立たずの戦神子(メイデン)


 マリアが迫ってきたとき、柚葉の前に立ったばば様が杖を剣代わりにレイピアを弾いた。その反動で後方に退いたマリアが、瞬時に体勢を建て直し再び襲いかかる。


(うつつ)、神子を滝へ連れていけ!」


 柚葉の隣に控えていた男、現は剣を抜き、応戦しようとするも杖に制される。


「しかし、それではばば様が!」

「早く行け!」

「あらら、本当に厄介なばあさんだこと」


 渋々ながらも、現は柚葉の手を掴み、里の西の方へと走り出す。どうしていいのかわからず、突っ立っている柚葉を無理矢理引っ張る。


「おい! こっちに来い!」

「……あっ」


 剣と杖を交じえる二人を横目に、柚葉は現の後を必死についていく。


「逃がさない!」


 軸足を回転し、柚葉の方へと足先を向けるも、既にばば様が先回りし、杖を構え、両者の間に立つ。


「お前は、勘違いをしている。それを正してやる!」




















(どうして、あの力が使えないの?)


「それは、世界が違うからだ」

「ふぇっ?!」


 心の内を読まれ、走りながらも柚葉は驚いた。その弾みに、転びそうになる。が、前足で踏ん張り、なんとか耐えた。


「お前が力を使えるのは、気が流れているあの世界だけ。だから、此処では通用せん」

「……そ、そうなんだ」


 それなら納得できる。柚葉の魔法は気流により、発動できる。気がなければ、魔法は使えない。


(気持ち読んだのは、まぐれだよね?)


「いや、能力だ。流星郷に住む者は皆が何らかの能力をもっている」


 再度読まれたことに、驚きながらもそれが能力なのだと身をもって理解できた。それなら、マリアは皆を眠らせる力があるのだろう。


「じゃあ、幻は?」

「彼は特別で、二つの能力が備わっている。一つは、姿を変える力だ」


 やはり幻は、櫂人に成り済ましていたのだ。おそらく、柚葉に好意を抱かせ、先導しやすくするために。本当は、どんな容姿をしているのか。


「……二つは、我が民の生死を操る力。それ故、凛は幻を殺そうとし、反逆者となった」

「え、なんでその力を持っているだけで、自分の兄さんを殺そうと出来るの? 幻の性格を考えれば、悪いことに利用したりしないよ!」


 ようやく、滝のある崖に着いた。現は後方を見てマリアがいないことを確認すると、やっと呼吸を整える。


「幻は、その力で、自らの母を殺した」

「……ど、どうして」


 その言葉に、耳を疑う。幻がそんなことするはずがない、と心底から否定する。だが、現は真剣な眼差しを向け、話している。


「母親は病で床に伏せていた。それも、不治の病だ。徐々に衰え、次第に手足が動かなくなり、声も……」

「じゃあ、もしかして、お母さんが幻に頼んだの?」


 現は、こくりと頷いた。


「母親は、お前の居た世界を守っていた。だが、手足も動かなければ我々の役目である万世の守護もできない。そして死ななければ、継承はできない」

「……あっ! そっか、そういうことだったんだ!」


 幻は、干渉していた。柚葉が生まれ育った世界の守護者の継承を行うため、生ける屍となった母の願いを叶えるため、族長として、息子として、その能力を使ったのだ。万世の守護者としての使命を果たすために、母を殺したのだ。


「じゃあ、凜はそれを知らないんだ」

「いや、事実を話したが、理解できなかったのだろう。どんな理由であれ、幻は母を殺したことに変わりはないからな」


 凛は、母を殺した復讐として、自らの手で幻を殺そうと躍起になっている。自分が凛の立場になって考えたら、確かに要領よく理解できないだろうし、兄に怒りをぶつけ、何度もその胸を叩くかもしれない。苦しいのもつらいのも全部兄のせいにして、恨むかもしれない。

 つらいことに重い軽いもないけれど、幻の方が、もっと複雑な胸中を抱えているんじゃないだろうか。そんなことは露ほども知らず、幻を好きになった柚葉だが、逢えばいつも儚げな瞳をしていたことを思い出す。

 贄になったのも、柚葉を守るためだけじゃなく、心のどこかで自分が消えればいいなんて、思っていたからじゃないか。

 あくまで想像でしかないが、柚葉にはそう思えてならなかった。過ごした時間も少しばかりなのに、手に取るように幻の感情が移入してくる。

 この思い、凜は知っているだろうか。否、彼女は自分のことで精一杯で、幻の立場になって考えてなどいないだろう。考えようともしていないだろう。


「悪いが、時間がない。これを受け取れ」


 現から渡されたものは、枯れて茶黒く変色した(みこと)の花。大切に扱わなければ、花弁は風に乗り落ちてしまいそうだ。


「これは、幻の?」

「あぁ、幻に会いたいなら、それを手に、この輪廻滝に落ちることで死ななければならない。上手くいけば、その花が幻の生きる世界へと連れて行ってくれる。だが、死ねば確実に会えるわけではない」

「……そっか、そういうことだったんだ」


 死ぬ覚悟がないと、会えないということをばば様はあの行為で示していたのだろう。

 あのときは目を瞑ってしまったけれど、幻を思い慕うのは事実で、彼の真の姿を知らなくても、心から好きだと言える。それに、幻は柚葉を守るために、死した。だから、次は自分が死して幻に会いに行く。可能性が低くとも、そんなの関係ない。

 幻が、好きだから。

 

 だが、その前にやることがある。


「覚悟、ないのか?」

「あるよ。でも此処で死ぬ前に、凜に会わなきゃ」

「なっ、正気か? 今のお前は魔法も使えなければ、奴に太刀打ちもできない! 滝に落ちて死ななければ、永遠に幻に会えないぞ!」


 今なら間に合うと、懸命に柚葉を諭すが、頑なに断る。


「凜に会って話したいことがあるの! それで、幻にも会う!」

「お前、何て奴だ……!」


 次の瞬間、現は意識が切れたように地面へと倒れた。


「――現!」


 柚葉が駆け寄ろうとするも、それは一人の女によって止められる。

 頬に傷のついた、マリアだ。


「やっぱり、あんたは効かないんだね」

「凜!」


 現を見下しながら、片手に持った杖を地面に突き刺す。あれは、ばば様が持っていたものだ。


「あんたを、殺してやる」


 マリアは、レイピアの切っ先を柚葉に向ける。恐ろしく冷めた瞳で、獲物を捉えるがごとく睨みつける。

 だが、先程のようにもう、慄いたりしない。唇を噛みしめ、自分を奮い立たせて一歩近づく。


「お兄さんが、私のせいで亡くなったからだね」

「……は? なんであんな奴のことを――」


 現の話では、会いたい人が、滝に落ちなければならない。だから、マリアが会いたいならマリアが落ちて死ななければならない。だから、柚葉を殺す必要などないのだ。


「いくら憎くても、兄は兄。私の代わりに生贄になって、亡くなったから、私が憎いんだよね」

「確かに、お前は憎い! 憎いが、理由はそんなものじゃない!」

「私、凜に刺されなくても死ぬよ。幻のために、死ぬから。あなたが誰かを殺す必要なんてないよ」


 柚葉は諭すように、真っすぐにマリアの瞳を見つめる。だが、その視線を逸らし、ぎゅっと目を瞑った。


「善人ぶるな! この役立たずが!」

「私は罵倒されてもいい。元彼のしたことが、この事態を起こしたから、知らなかったとは言え私にも責任があると思う。でも、幻の立場になって、一度でいい、考えてほしいの」

「煩い! それ以上喋るなぁっ!」


 思い切り地面を蹴り、レイピアを構えながら、柚葉に向かって突き刺そうとする。


「――なっ!」


 切っ先は、柚葉の脇腹を貫き、刃を伝って血が滴り落ちる。その様にマリアはうろたえ、レイピアを持つ手が震える。


「なんで、なんであんたは――」

「……わかって、ほしいから。幻は、きっと、凜と同じくらい、ううん、それ以上に、苦しんでたってこと」


 強烈な痛みに顔を歪めながらも、頑張って笑みを見せる。何かが喉元まで込み上げてくるが、ここで血を吐くわけにもいかない。ぐっと堪え、震える手を包むよう、両手と命の花を重ねる。


「きっと、大切な人を、病から解放して、あげたかったんじゃ、ないかな」

「いや、あいつはただ使命を果たすためだけに――」

「ううん、違うよ、だって、いつも悲しそうだった……ずっと、心を痛めてた。きっと、何度も、後悔して、苦しんで、自分を責めてた」


 出血が多く、このままでは滝に落ちる前に出血多量が原因で死んでしまうかもしれない。けれど、柚葉は続けた。


「だから、今度は、凛が、解放してあげて」

「なっ、なんで私がそんなことを!」


 ぐっと歯を食いしばり、剣を抜こうとするも、手に力が入らないらしい。柚葉を見ないよう、自分の犯した行為を無かったことにするよう、完全に目を逸らしている。


「凜にしか、できないこと、だから。幻を、苦しみから、解放してあげて」


 初対面の柚葉の言葉が、拒絶していたマリアの心をゆっくりと溶かしていく。柚葉に殺意を抱いたのは、兄が殺されたことを知ったときで、彼女の言う通りだったから、なおさら違うと自分に言い聞かせていた。幻は親を殺した、憎い敵だと、ずっと思っていたけれど、柚葉が話したことは事実だ。母が亡くなってから、ずっと落ち込んでいたし、誰にも心を閉ざしていた。妹の、凜にさえ。

 万世の守護者の死因は、病か寿命を全うするかの二つしかない。刺されても、自己治癒力が強いため回復し、寿命は人の何百倍も長い。だから、幻の能力のみが、病に苦しむ守護者を“死“という形で解放することができる。


「……あんた、関係ないのに、どうして、奴のためにそこまでできるのよ」

「私、幻が好き。だから、幻には、関係なくても、私には、あるの」


 その言葉にようやく、マリアが顔を正面に向け、ゆっくりと瞼を開ける。そこには、にっと得意の笑顔を見せる柚葉がいた。頭が朦朧としていて、今にも意識を失いそうだとは思えないほど、明るい笑顔だ。

 屈託ない笑顔に安堵しながら、自分の犯した行為と、向き合う。そのとき、気付いた。今、自分は目を逸らしてしまったけど、幻は、母の死を真正面から受け止めていたことを。


「私、そろそろ、行かなくちゃ」


 このままでは、幻に会えぬまま死んでしまう。まだ意識のあるうちに、この滝に身を放り込まなければならない。自ら動き、レイピアを体から抜く。体を抉られるような感覚が痛く気持ち悪い。その間も、マリアに心配させまいと、必死に笑う。もしここで痛みを感じさせたら、この先ずっと、苦しむかもしれない。大好きな人の妹だから、このことで苦しんでほしくない。


「……兄さんを、よろしくね」

「ありがとう、凜。ちゃんと、伝えるね」


 今の言葉が、精一杯だった。だが、それだけで十分だ。凛が幻の痛みをわかってくれたのだから。分かち合うことはできなくても、その言葉で幻は、心が軽くなるだろう。

 ふらつきながらも、手にはしっかりと命の花が握られている。崖から身を乗り出すと、底のない闇が延々と続いている。滝は、真っ逆さまに落ち、終点が見えない。


「また、会えたらいいな。だから、またね」


 最後まで笑顔を絶やさない柚葉は、立ち尽くすマリアに小さく手を振ると、残った力で地面を蹴り、滝と共に闇へと飛び込んだ。

 マリアは駆け寄り、柚葉が飛び降りた場所から見下ろす。だが、もう姿はなかった。


 殺すつもりだった相手なのに、その気は失せ、不思議と温かい気持ちがじわじわ湧いてくる。これは、自分がずっと求めていた感情なのかもしれない。本当は、母の死を兄と分かち合いたかった。でもそれはできず、結果、兄を憎むことで母の死を受け止めようとしてしまった。

 少しばかりしか話していないのに、身をもって過ちを正してくれた。そして、二度と会えなくても、兄と繋がっている、そんな気持ちになれた。感謝しても、しきれない。だから、伝えたい。


「……ありがと、柚葉」


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