9話 手足
ヘンゼルは約束を違わず、甲斐甲斐しくシャルロッテを世話してくれた。ベッドから起き上がったシャルロッテを車椅子に乗れるように抱えて、座ったら車椅子を押してくれる。
メイドたちは父によって解雇されていたので、ヘンゼルが身の回りのことをしてくれた。
「恥ずかしいから…」
「でも一人じゃ難しいでしょう」
着替えも風呂の介助もヘンゼルがしてくれた。極力見ないようにはしてくれているが、それでも恥ずかしかった。
「わたしのことは男だと思わなくていいです」
「そんなことできるわけないじゃない」
ヘンゼルはシャルロッテが最初に会った時、女の子だと勘違いしてやや強引に服を脱がせたことを根に持っているのだろうか。
「わたしは男にも女にもなれない。羽化する前の蛹みたいにどろどろで、あなたの手足になる以外には何にもなれないのだから」
ヘンゼルの瞳には暗い影があった。シャルロッテの恥ずかしい気持ちを和らげるための言葉だけではなさそうだった。
「旦那様はいつも、わたしを女のように扱って女のようなやり方を強いた」
自分を卑下するような響きがあった。
「わたしは故郷で歌声のために去勢されているんです。旦那様もそれを知っていたから拾った。わたしは男じゃないから、恥ずかしがる必要もないですよ」
「そんなはずは…だって、私は見てしまったもの」
シャルロッテはヘンゼルの裸を見てしまった時を思い出した。確かに自分にはない男の証を見て女の子ではないと気づいたのだから。
「去勢にも色々ありますから」
ヘンゼルはシャルロッテを安心させるように微笑んだ。彼が天使のような美貌を保ち続けている理由が分かったような気がした。
ヘンゼルの献身的な世話を医者に体を診せるようなものだと割り切ろうとしても、恥ずかしさは消えなかった。シャルロッテは部屋の隅に置いてある尿瓶に目を向ける。あれだけはやはり慣れない。
これが足が不自由になった代償なのだろうとシャルロッテは受け入れられるようになりたかった。
父は正式にベルク家に抗議した。最初はベルク家は権力で揉み消そうとしたようだが、ハインリヒが介入したことにより王家にも事態が知られることになってしまい、揉み消すことができなかったようだ。
エルフリーデは「突き落としていない」「シャルロッテが勝手に落ちて私を嵌めようとした」「私はシャルロッテを助けようとした」と主張しているようだ。しかし、ハインリヒがシャルロッテがいじめられていた証拠を手に入れ、エルフリーデに突きつけ公衆の面前で断罪したらしい。
そのまま婚約を破棄したそうだ。エルフリーデはシャルロッテへのいじめは周りが暴走しただけだと、罪を逃れようとしたが、流石に王家の威光に恐れをなした取り巻きとシャルロッテのルームメイトたちが証言したらしい。
「あなたは駆け回るのが好きでしたね。目隠し鬼なんて、何度やらされたことか」
ヘンゼルは懐かしそうに呟いた。
「子供っぽくて悪かったわね」
シャルロッテは拗ねたように口を尖らせる。もう足は動くことはない。一人で歩くことはできず、風呂も着替えも用を足すことすらできない。
知識があれば女性でも一人で生きていけると思っていた。今はヘンゼルから離れられない。好きだからという理由だけではなく、生活できないという切実な理由からだ。
父は使用人を大量に解雇してしまったので、ヘンゼルが介助しなければ父がシャルロッテの介助を自らしそうなくらいだった。
その夜、シャルロッテは喉の渇きによって目が覚めた。ベッドの近くに取り付けられた鈴から伸びる紐をシャルロッテは掴む。ヘンゼルが呼びだすときにはこれを鳴らしてほしいと取り付けてくれたものだ。
使用人がいなくなったのでヘンゼルは地下室から地上のシャルロッテの隣の部屋に移っておりシャルロッテが鈴を鳴らせばいつでも駆けつけてくれた。
鈴を鳴らすが、ヘンゼルは現れない。聞こえなかったのだろうかともう一度鈴を鳴らそうとしたとき、壁越しに声が聞こえた。
「ヘンゼル、お前が拒否するなら俺にも考えがある」
父の低い声だった。その声を聞いただけでシャルロッテは歯ががちがちとなるような気がする。
「シャルロッテはますますゲルダに似てきた。シャルロッテにお前の代わりをさせたいのか。あの足じゃ逃げられないだろうしな」
その声に湿度が帯びているような気がして、シャルロッテはぞっとした。母の面影を娘に見て、妻のように扱う欲望を父が抱えていたことが恐ろしかった。
父はシャルロッテの足が不自由になったとき、特注の車椅子を用意したりはるかに格上であるベルク家と戦おうとしたり、ヘンゼルや母にしてきたことは許せないが、父としてシャルロッテを愛しているのは本当だと思っていた。
「やめてください。彼女に酷いことをしないで」
ヘンゼルの悲痛な声が聞こえてきた。背中にはじっとり汗をかいていて指一本も動かせなかった。少しでも動いてしまったら鈴の音が響くような気がしたから。
「どうだろうな。いつものように媚びて懇願してみたら考えるかもしれないな」
父の嘲笑を含んだ声がシャルロッテの耳にこびりついていた。話の内容からして、ヘンゼルは父を拒否しようとしたのだろう。今まで無抵抗に受け入れていたはずなのに、その心境の変化にはシャルロッテが関わっているという自信のような予感があった。
シャルロッテはヘンゼルに「私を愛してくれる?」と求めた。きっと彼は父のことを精算したかったのだろう。
「わたしはいつまでもあなたに組み敷かれるだけの奴隷じゃない!」
ヘンゼルの叫び声が聞こえた後、大きな物音がした。罠にかかった獣が暴れているかのようだった。シャルロッテは自分が一人では満足に動けない体であることを呪った。
動かせる上半身と腕力を使って、ベッドから転げ落ちるように降りると、置いてある車椅子に腕力だけで乗ろうとした。
その時、部屋のドアが開いた。
「シャルロッテ、ごめんなさい。鈴を鳴らしてくれていたのに気づくのが遅くなって」
薄暗い部屋の中でヘンゼルの乳白色の肌が淡く発光しているように見えた。
「お父様は…」
だからこそ、白い肌に何が黒い液体のようなものが飛び散っているのが恐ろしかった。きっと明るい場所で見ればそれは赤い液体なのだろう。
「旦那様には少し静かになっていただきました。それより、シャルロッテ、ベッドから落ちてしまったんですか」
ヘンゼルは何ごともなかったかのように平然とシャルロッテに近づくと軽々シャルロッテを持ち上げてベッドまで運んでくれた。
もう喉が渇いたという感覚はしなかった。歯ががちがちと鳴るのが抑えきれない。
「シャルロッテ、おやすみなさい。良い夢を」
ヘンゼルは優しく、まるで故郷の子守唄を歌うように柔らかい声で耳元で囁くと額におやすみのキスをして去って行った。
もう安眠できるような状況じゃなかった。隣の部屋で父はどうなってしまったのだろう。ヘンゼルの肌に張り付いた血の残像ばかりが色濃くはっきりと浮かび上がってくる。
しかし、どこかで安堵している自分がいるのも不思議だった。あの人は血を分けた父だけれど、母を死ぬまで追い詰めた。そしてシャルロッテに母を重ねて、欲望をぶつけようとした。
ヘンゼルは今まで自分一人なら黙って耐えていただろうが、シャルロッテに危害が加えられる可能性が出てくると反抗するのを躊躇わなかった。
ヘンゼルに大事にされていると感じるだけで心が満たされている。ヘンゼルはシャルロッテのためなら何も躊躇わないということが証明されて嬉しかった。
ヘンゼルは本当にシャルロッテの手足になってくれたのだ。恐怖を感じてはいたが、嬉しさも感じていてシャルロッテは混乱しながら天井を見つめた。




