8話 汚泥に塗れて
シャルロッテは階段から落ちた怪我により、足が不自由になった。学校は休学を余儀なくされ、帰りたくなかった屋敷に帰ることになってしまった。
手紙で先に「階段から落ちた」と父に知らせていたので、父はシャルロッテのために特注の車椅子を用意していた。
シャルロッテが屋敷に帰ると、階段から落ちたということが母の死因と重なったのか、父はこちらが心配になるほど狼狽した。
「シャル、可哀想に。大丈夫だからな。たとえベルク家が相手だろうと娘がこんな風にされて、黙ったままでいられるか。正式に抗議するからな」
父は動かなくなったシャルロッテの足を辛そうに見つめた。ブランケットをかけられた足はもう動くことはない。首都の病院に運ばれて治療を受けたが、脊椎を損傷しており下半身が麻痺していた。リハビリも効果がなかった。
「お父様、自分で車輪を動かせますから」
父が車椅子を押そうとしたが、シャルロッテはそれを断った。特注の車椅子は腕の力だけで車輪が回せるように作られていた。
車椅子で移動しようとすると、ヘンゼルがこちらを見ているのと目が合った。ヘンゼルは変わり果てたシャルロッテの姿に愕然としているようだった。
シャルロッテが学校に行っていた二年間でヘンゼルの手足はすらりと伸びていたが喉仏は出ておらず、声も高いままだ。体は平均より少し薄いし、顔こそ中性的なままだったが、背丈はもうすっかり青年になっていた。
「シャルロッテ、何かあったらすぐに呼ぶんだぞ。階段を使う時はヘンゼルに手伝ってもらいなさい」
父はシャルロッテがこうなることを見越していたわけではないだろうが、ヘンゼルを小姓として雇っておいてよかったと思ったのだろう。力があるが、自分の支配下に置いているので娘に危害を加える心配をしなくて済むのだ。
「シャルロッテ、手伝います」
ヘンゼルが遠慮がちに声をかけた。背が伸びたヘンゼルはすらりとした白い花のようだった。甘くひんやりした氷菓子のように涼やかな声で、あんなことがあったあとも変わらずシャルロッテを優しい瞳で見つめてくれる。
シャルロッテがいなくなった屋敷でヘンゼルと父はどんな淫靡な蜜月を過ごしていたのだろうと吐き気がする。ヘンゼルの首元にちらりと覗く鬱血痕がシャルロッテを暗澹たる気持ちにさせた。ヘンゼルは壊れたお城で父と二人っきりだったのだろうか。
近習の話によると父は母がいなくなってから、徐々に壊れ始めたようで、今では鉄鋼業の実務は部下に任せきりだという。酒浸りになり、気に入らない使用人を解雇し続けた。
屋敷の使用人はシャルロッテがいた頃より減っていて、代々仕えてくれている通いの執事と通いの老齢の家政婦だけになっていた。その人数で屋敷を維持できるわけもなく、使用する部屋を少なくすることでなんとか屋敷を回していた。
「部屋まで送ります。それくらいはさせてください」
蜂蜜のような瞳が揺れた。舐めれば甘いのだろうかと現実逃避しながら、シャルロッテはヘンゼルがあまりにも懇願するので結局彼が車椅子を押すことを許可した。
座っているので視線が低くなっているシャルロッテに目線を合わせるようにしゃがみ、雨に濡れた子犬みたいな目で、こちらを見てくるのだから断れなかった。
ヘンゼルはシャルロッテを部屋まで送ってくれた。だが、シャルロッテは素直にお礼を言うことができなかった。ヘンゼルの首に残る痕が、父からの支配は終わっていないと物語っていたから。
「ヘンゼル、私がいない間は楽しかった?」
意地悪な言い方になってしまったが、彼がシャルロッテがいない間に父から酷いことをされていないか心配する気持ちもあった。
「毎日が曇りみたいでした」
この土地は曇天だったり雨が多いが、その話をしているわけではないことくらいはわかった。
「シャルロッテが、学校で楽しく過ごしている。それだけを支えにしてきたけれど、こんなことになるなんて」
ヘンゼルは崩れるようにしゃがみ込んで、シャルロッテの動かない足を苦しそうに撫でた。もう感覚がわからないから、触れられていても感じられない。触れないで、汚らわしいという気力すら湧き上がっては来なかった。
「全て…わたしのせいです。シャルロッテ、わたしはどうすればあなたに償えますか」
ヘンゼルは家庭を壊したのもシャルロッテの足が不自由になったことも全部自分の責任だと考えているようだった。確かに逃げるように進学はしたが、ヘンゼルが来る前から進学は決まっていた。
「ねぇ、ヘンゼル。あなたは以前、お父様とは愛し合っていないと言ったよね。なら、どうして父の愛人みたいなことをするの」
ヘンゼルは誤解があると言った。シャルロッテが、何か勘違いしているのなら、絡まった紐を解きたかった。きっと紐は一本しかないのだから。
「あの人は私利私欲のために、わたしを拾ったんです。夜な夜な、わたしを欲の捌け口にして昼間は良い人でいられるように」
ヘンゼルが以前語った父が良き領主、良き父、良き夫でいられるために捌け口になっていることは事実だったのか。ショックすぎてヘンゼルの自己弁護のように受け取ってしまった自分が悔やまれた。
父を最低最悪な人物だと認めたくないという気持ちが残っていたのだろう。ヘンゼルが女のような美しい顔をしていなければ拾わなかったかもしれない。
父は母を歪んでいながらも愛していたのだろう。父が本当は同性愛者なのかもしれないと疑ったが、女だと妊娠させてしまうのを面倒くさく思って、女みたいなヘンゼルを代わりに使ったのだろう。
「旦那様は内に暴力性を秘めておられました。人を殴ったり首を絞めたりしなければ、達することができないと。ですが、愛しの奥様にそんなことはできないから、代わりにわたしを使ったんです」
どんな理由があろうとも、人を害していい理由にはならないというハインリヒの言葉が蘇った。それはシャルロッテに深く突き刺さって、どくどくと血を流している。
「私はあなたを置いて逃げたのね。私が助けられる可能性があったのに」
「逃げてよかったんです。わたしにとっての光がどこか安全な場所で輝いてくれていたら、それでよかった」
シャルロッテはヘンゼルにとって暗闇に現れた光だったのに。この人の希望になれていたことを知って嬉しかったはずなのに。
「ごめんなさい、ヘンゼル…」
ヘンゼルを見捨ててしまっていたのだという罪悪感に耐えきれずシャルロッテは涙を一粒溢した。自分の初恋の人が父に陵辱されていたのに、どうして助けてやるどころか拒絶してしまったのだろう。
「謝るのは、わたしの方です。あなたの大事なものを壊してしまった。謝られるくらいなら、罵って恨んでくれた方が良かった。あなたを不幸にしたのはわたしだ」
ヘンゼルはシャルロッテの感覚のない足に頬を擦り寄せた。失くしたものを手繰り寄せるみたいに。シャルロッテを不幸にしたと信じているヘンゼルは、自分には関係ないはずの足のことまで責任を感じているのだろう。
「償いたいっていうなら、私の願いを聞いて」
「あなたの願いはすべて叶えます」
ヘンゼルは貴族の足に縋り付く物乞いみたいだった。シャルロッテから罰を与えられることを乞うていた。
「私を愛してくれる?」
シャルロッテはあの階段から落ちたとき、自分も汚泥の中に落ちたのだと思った。自分の醜さが嫌になるのと同時に愛おしさに似た感情を抱いていた。恋に恋するようにヘンゼルを好きな自分が好きだったのかもしれない。
「もうずっと前からあなたのことだけを愛しています」
ヘンゼルはシャルロッテの動かなくなった足の代わりに自分が手足になって補うと誓った。
「あなたが歩けないなら、わたしが抱えてどこまでも歩きます」
深い泥の中に沈んでいく気がした。




