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10話 同情

 翌朝、いつも通りにヘンゼルがシャルロッテを起こしにきて洗顔のためのお湯を持ってきたり、着替えを手伝ってくれた。


 昨夜、父がどうなったか聞かなければならないのに聞いてしまえば取り返しがつかなくなりそうだった。シャルロッテがそわそわしている様子を感じ取ったのか、ヘンゼルは微笑んだ。


 「旦那様に会いに行きますか?」


 ヘンゼルは会いにいくという表現を使った。つまりまだ父は生きているのだろうとシャルロッテは思った。その時に感じた気持ちが安堵だったのかはよくわからない。


 父の寝室にヘンゼルは車椅子を押してくれた。ベッドには父が横になっていて、頭には包帯が巻かれているが少し血が滲んでいる。


 昨夜、罠にかかった獣が暴れているようだとシャルロッテが感じていた時、ヘンゼルは父の頭を鈍器か何かで殴ったようだ。そして父を引きずるようにしてベッドに寝かせて手当までしたのだろう。


 「シャルロッテ、息の根を止めますか? あなたの判断に従おうと思って」


 ヘンゼルはまるで「今日は何をして遊びますか」と尋ねているように平然としていた。包帯の隙間から覗く父の瞳はヘンゼルを映すと怯えたようになった。


 いつのまにかヘンゼルは父より力で勝るほど強くなっていたのだろう。父はシャルロッテが学校に行っている間に老いた。父の体が想像よりも小さくなっている気がした。


 「一応、この人は私の父だから」


 シャルロッテはなんとかそれだけを絞り出した。ヘンゼルは少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔になった。


 「生かしておいても、もう旦那様はあなたに不埒なことはできないようにしました。昨日、足腰を徹底的に壊したんです」


 シャルロッテは腕で車輪を回し、父が横になっているベッドに近づいた。そして隠されている足元の布団を捲った。そこには変形した足があった。


 「睾丸も潰しておきましたから。もう、大丈夫ですよ」


 ヘンゼルの笑顔は昔飼っていた犬を思い出した。ボールを投げたらキャッチして尻尾を振りながらシャルロッテの元へ走ってくる。


 父は足が不自由になったシャルロッテと去勢されたヘンゼル、二人の不幸を身をもって体験した。それが何故だかヘンゼルの復讐というより、シャルロッテとヘンゼルの復讐という気がした。


 「もうすぐ、通いの家政婦が来るわ。お父様の状態をどう説明するの」


 「酒に酔って奥様と同じく階段から落ちたことにしませんか」


 父は酒を飲む頻度が増えていたので、そう説明すれば家政婦は寝室から出てこない父を怪しむことはないだろう。


 「…ゲルダを…!」


 父が何か言おうとしたがヘンゼルが睨みつけると口を閉じた。父からすれば母の死因を侮辱されたように感じたのかもしれない。


 「お父様、そのままずっとそうしててください。床ずれで骨が剥き出しになって肉が腐っていくのを待ちながら、しっかり反省してくださいね」


 父には死んだ方がましだという目に遭わさなければ、きっと天国への道が開けないような気がした。それでもきっと母と同じところには行けないだろう。


 「ヘンゼル、行きましょうか。家政婦は適当な理由をつけて解雇しましょう」


 シャルロッテがヘンゼルに視線を向けるとヘンゼルはすぐに車椅子を押して父の寝室から出た。父という支配下から抜け出し、シャルロッテとヘンゼルを縛るものは何もなくなったはずだった。


 使用人をほとんど解雇してしまっていた男爵家だが、領民たちが屋敷に「王太子殿下御一行がこちらに来られた」と知らせに来てくれた。


 ハインリヒはわざわざ首都から辺境の領地までやって来ていたのだ。領民たちは街道に出て、王太子が乗る馬車を歓迎していた。屋敷には宮廷から報せが来るはずが、行き違いからハインリヒたちの方が早く着いてしまっていた。


 領民たちは父が使用人たちを一斉に解雇した「領主様のご乱心」を知っていたので、王太子をもてなすために領民たちが一時的に手伝って使用人の真似をしてくれた。


 父がいる寝室には近づけないことを徹底して、シャルロッテは屋敷にハインリヒを迎えた。


 「王太子殿下、わざわざ領地にまで来ていただけるなんて」


 シャルロッテはヘンゼルに車椅子を押してもらいながらハインリヒに近づいた。ハインリヒはわかってはいただろうが車椅子姿のシャルロッテを見て改めてショックを受けたようだった。


 「元気そうでよかった。シャルロッテ。…君が学校から急にいなくなってしまったから心配していたんだ」


 「心配していただいて嬉しいです」


 シャルロッテは愛想笑いを浮かべながらも、どうしてハインリヒは来てしまったのだろうと思った。後ろで車椅子を押してくれるヘンゼルがどんな顔をしているのか見られなかった。


 「少し、話したいことがあるんだ。彼には席を外してもらえないだろうか」


 ハインリヒはちらりとヘンゼルを見て申し訳なさそうに言った。


 「…わかりました。ヘンゼル、少し外して。大丈夫よ。何かあったらすぐ呼ぶから」


 ヘンゼルはわかりましたと素直に応じたが、シャルロッテにはその表情が傷ついているとわかった。ハインリヒが代わりにシャルロッテの車椅子を押そうとしたので、「恐れ多い」と断ろうとしたが「君にそんなことさせられない」と押し切られてしまった。


 そのやりとりを見ていたヘンゼルの視線が突き刺さった。まるで捨てられた子犬のようにこちらを見つめてくる。シャルロッテの車椅子を押すのも、シャルロッテを抱えて運ぶのも、着替えや風呂の介助はヘンゼルの役目だった。


 いきなり役目を取り上げられて傷ついているのだろう。彼はシャルロッテの手足であることを望んだ。そのほかには何にもなれないとも。去勢され、女のように扱われたヘンゼルは自分の認識が曖昧で、シャルロッテに手足として求められることで、自分の現在地を確かめているようだった。


 ハインリヒが車椅子を押しながら、シャルロッテたちは庭を散策した。話したいことがあると言っていたのにハインリヒは言葉とタイミングを探しているようだった。


 「君には申し訳ないと思っている。エルフリーデの暴走を止められなかったのはわたしにも責任がある」


 「王太子殿下が気になさることはありません。あれは事故のようなものですから」


 エルフリーデもシャルロッテと同じく休学していて、ベルク公爵は娘を領地の別邸で謹慎させるつもりでいた。しかしハインリヒ、王家がこの事態に介入したことにより、エルフリーデは厳しい修道院に入れられるらしい。


 階段から人を突き落とすような女が未来の国母の資質を兼ね備えているのか疑わしいというのが王家の判断だった。ハインリヒは公衆の面前で婚約破棄をしたことは、多少国王からお咎めがあったものの、婚約破棄自体はあまり責められなかったらしい。


 ハインリヒが衆目の中、エルフリーデを断罪、婚約破棄したのにはベルク家が今回の件を握りつぶさないようにするためだった。ハインリヒは勝手に大事にして悪かったとシャルロッテに謝罪した。


 「君は髪を切られた時も、枝毛を切ったと誤魔化した。階段から突き落とされても、事故だったと言う。どうして一人で抱え込むんだ。わたしはそんなに頼りないか?」


 「そんな…ことは…」


 シャルロッテは言葉に詰まった。


 「好きな女から頼られないのは、わたしも悲しいよ」


 ハインリヒの言葉にシャルロッテは固まった。一番、聞きたくない類いの言葉だったから。父に似た青い瞳がシャルロッテを真摯に見つめる。それは愛しい女を見つめる目だったが、ヘンゼルほど甘く優しくなかった。


 「シャルロッテ、君を愛している。どうかわたしと結婚してくれ」


 ハインリヒはシャルロッテの前に跪いて、視線を合わせるとシャルロッテの指に王家の紋章が入った指輪をはめた。母が壊れてしまったのと同じように、シャルロッテもエルフリーデを壊してしまったのだと感じた。


 「殿下のお気持ちは、私の足が壊れてしまったから憐れんでくださったからでしょう。同情の求婚など要りません」


 「違う! 君に惹かれていた。君を愛しているんだ」


 ハインリヒは最初、成績で勝てない辺境の才女がどんな人物か興味を持って声をかけたという。集まりでシャルロッテの話や面白い視点を聞くたびに、話が合うと感じていたようだ。


 そして、香水の匂いを振り撒き愛想笑いだけしているエルフリーデより、先進的な考えを持つシャルロッテと生涯を歩み、国を導いていきたいと考えた。


 「殿下は罪悪感と愛情をはき違えておられます」


 「どうしてわかってくれないんだ。シャルロッテ…」


 ハインリヒの寂しげな声が響いた。


 「どうしたら君にわたしの愛を証明できる?」


 ハインリヒがすがるような目線をシャルロッテに向けた。シャルロッテは真剣に自分が愛されていると感じることを考えてみた。


 シャルロッテにとっての愛は、シャルロッテのために汚泥の中を歩くことを厭わず、シャルロッテの手足となってシャルロッテのために汚れることを躊躇わないことだ。それはやはり世界で唯一、ヘンゼルしかいない。


 「これから生涯をかけて君に愛を伝え続ける。君を世界で一番幸せな女性にする。悪いけど、もう逃がさないから」


 ハインリヒの目は真剣で、彼は自分の好意を押し付けてくる。彼にとってシャルロッテの返事など些細なことだった。もうとっくにどうするのかは決めていて、シャルロッテが頷くならそれでいいし、頷かないなら頷くようにするだけのことだった。


 やはりハインリヒは父に似て支配的な人だとシャルロッテは泣きそうになった。指輪を外そうとしても、指が浮腫んでいるのか呪いのアイテムのように外れなかった。

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