11話 暗闇
ハインリヒはシャルロッテへの求婚をすると「迎えに行く」と恐ろしい言葉を残して首都へと帰っていった。忙しい合間を縫っての行啓だったから、滞在する時間がなかったのだ。
領民たちにシャルロッテが王太子から求婚されたことはすぐに広まって「我が領のお嬢様が王太子妃になられる!」とお祭り騒ぎだった。使用人の代わりをしてくれた領民たちに謝礼を包んで穏便に帰ってもらい、シャルロッテはようやく安堵の息を吐いた。
ハインリヒから「お父上に挨拶したい」と言われ、領民からも「領主様は今どちらに?」と詮索されたので「父は怪我で床に伏せっていて会えない」と誤魔化した。
領民たちは酒に酔った事故と説明すれば、「奥様が亡くなられたから…」と納得してくれたが、事情を知らないハインリヒを誤魔化すのに苦労した。
ハインリヒは領民の誰かから母が階段から落ちて亡くなったという「アイゼン家の悲劇」を聞き出したらしく、父やシャルロッテの身に降りかかったことに心を痛めてくれた。
ハインリヒや領民らがいなくなった静かな屋敷は耳鳴りのような音がする。自分の呼吸がうるさくて、仕方がない。
「シャルロッテ」
シャルロッテが玄関の広間でため息を吐いていると、ヘンゼルが声をかけた。その表情は暗く、いつも甘い蜂蜜のような瞳は激しい感情が燃えているように見える。シャルロッテは実際には見ていないが、ヘンゼルが父に反抗した時、こんな瞳をしていたのだろう。
「求婚を受けるんですか」
ヘンゼルの福音のような清らかな声は震えていた。
「私の意思なんて関係ないのよ。あの人はもう決定事項みたいに思っている」
シャルロッテは指輪を引っ掻くようにして外そうとしたが、指が軋むように痛くなるだけだった。爪を立てて指輪周りの皮膚を傷つけていく。
「シャルロッテ、あなたは酷い人だ。わたしはあの人に地位も権力も、男としても何も勝てないのに…」
ヘンゼルが苦しそうに胸の辺りのシャツを掴んだ。皺が寄ってまるで自分自身で心臓を抉り出そうとするように爪を立てていた。ヘンゼルの言葉は血を吐くように悲痛で、彼は己の身体の在り方を呪っているのだろう。
「ヘンゼル、それは違うわ」
シャルロッテはどうやったらヘンゼルを救うことができるのか考えた。父の支配下にある時は、ヘンゼルをこの屋敷から連れ出して逃げてしまえば救われると思っていた。でもヘンゼルの傷を癒すことはできないし、過去も変えられない。
「あなたはずっとわたしのそばにいるじゃない。わたしのために全てを捨ててくれるじゃない。それはあの人にはできないわ」
ヘンゼルはシャルロッテを光だと思っている。しかし暗闇の中に彷徨うヘンゼルは一筋の光を見失うしかない。それならシャルロッテは天から彼を照らしてやるのではなく、一緒に汚泥の中に堕ちたいと思った。
私たちに太陽は照ってくれないのだろうとシャルロッテは思う。霧と雨、そして泥濘に閉ざされたこの土地のように。
ハインリヒはきっと周りから愛されて光の中を生きてきたのだろう。ハインリヒは不幸で可哀想だと思っているシャルロッテを憐れんで光の中に連れて行ってくれるのかもしれない。
しかし、光の中を歩くものだけを照らす太陽より日陰に生きる者たちを包む冷たい暗闇だけが、暖かかった。
「わたしはあなたの手足だ。あなたはわたしがいないと何もできない…」
ヘンゼルは車椅子に乗っているのシャルロッテに近づいた。そして車椅子からシャルロッテを抱き上げて、ずんずんと廊下を進んでいく。
足が動かせないのでばたばたと抵抗することはできず、そっと腕をヘンゼル首に回してしがみついた。そうしなければ落ちてしまいそうだったから。
ヘンゼルはシャルロッテをシャルロッテの部屋に運んだ。まるでガラス細工を扱うかのように優しくベッドに下ろすと、覆い被さるようにシャルロッテの首筋に顔を埋めて啄むようなキスを降らせた。
「あなたが王太子のものになるなんて耐えられない。わたしは不能だけど、あなたを悦ばせて王太子妃になんかなれないようにすることはできる」
ヘンゼルが動かない足を慈しむように優しく愛撫する。シャルロッテは震えていた。ヘンゼルの長い髪がカーテンのように垂れてくる。
「やめて」
シャルロッテの声は震えていて迫力も何もなかった。ヘンゼルにとっては怯えている小動物のように見えるだろう。動かせる両手はヘンゼルの片手で易々とベッドに縫い止められていた。
「あなたはそうやってお父様にされたみたいに、今度は私を扱うの?」
ヘンゼルの手がぴたりと止まった。シャルロッテが見つめる瞳ははっとしたように見開かれた。ヘンゼルはこんなやり方しか知らないのだと可哀想になった。人の愛し方を歪んだ方法でしか知らないだなんて。
シャルロッテの指摘にヘンゼルは絶望したように表情を曇らせた。すぐにヘンゼルはシャルロッテの腕を解放し、シャルロッテの上から離れた。そして床に崩れ落ちて頭を下げた。
「わたしは…なんてことを…。ごめんなさい、許して、許してシャルロッテ。嫌いにならないで」
ベッドで上半身を起こしたシャルロッテは足が動くならヘンゼルに駆け寄って抱きしめたかった。柔らかい金髪を梳かすように撫でたかった。
「いいよ、許すよ。あなたのこと、愛しているから」
シャルロッテはヘンゼルに手を伸ばした。ヘンゼルはその手をとって頬に擦り寄せたり、キスをしたりした。
「あなたの手足となって、あなたの望みを全て叶えるから。わたしを捨てないで、シャルロッテ」
ヘンゼルは懇願した。おかしなことを言うものだ。シャルロッテがヘンゼルを捨てるなんて有り得ない。自分の手足を捨てるなんて。逆にシャルロッテが介護に疲れたヘンゼルに捨てられないか不安だというのに。
「ずっと一緒よ。ヘンゼル…」
***
ハインリヒの訪問からしばらく経ったあと、屋敷には王宮からの使者がやってきた。正式に婚約を結ぶことを王命が書かれた書面で告げられ、婚約者として王宮で王妃教育を受けるために首都に連れて行かれた。
「おめでとうございます」
使者はまるでシャルロッテとハインリヒが相思相愛であり、シャルロッテが婚約を待ち望んでいたのだとばかりに祝いの言葉を述べた。
シャルロッテの表情が固いのも、恐怖からではなくこれからの王太子妃としての責務に緊張しているマリッジブルーというものだろうと、都合よく解釈された。
シャルロッテは実家から一人だけ従者──ヘンゼルを伴って王宮へ行くことになり、ベッドから動けない父はハインリヒの訪問があって解雇を告げられなかった老齢の家政婦に世話を任せた。
家政婦は、明らかに階段から落ちただけではないだろう父の怪我を目の当たりにしても何も言わなかった。シャルロッテが多額の金を積んで、黙らせた。彼女の孫が病気で治療費が足りないことを知っていたから。
最低限の世話だけするように言いつけた。たとえ死んでしまってもあなたに責任はない、葬儀も密かに取り行うことと念を押した。
ハインリヒとシャルロッテの婚約は庶民や下位貴族たちの間ではまるで灰かぶり姫のようだと好意的に受け入れられたが、エルフリーデを支持していた高位貴族たちには受け入れられなかった。
エルフリーデが主張している「嵌められた」という言葉を信じ、シャルロッテを批判する言説が流れ始めた。高位貴族たちの間では、エルフリーデとハインリヒを復縁させるよう画策している者たちもいるらしい。
それ以外にも、不具の女が出産に耐えられるのかと心配する声もあった。ハインリヒはそのどれもに怒りをあらわにした。
「シャルロッテ、安心して。あんな噂、すぐに消してやる。君がどんな姿だろうと、わたしは愛しているから」
ハインリヒはシャルロッテを安心させるように額にキスをした。シャルロッテは今すぐに額を拭いたいのを堪えながら、内心は自分を正当なる理由で王太子妃の座から引き摺り下ろしてくれないかと、反対勢力たちを応援していた。




