5話 濃霧に迷い
母の葬儀を終えて、シャルロッテは逃げるように進学した。あの陰鬱な屋敷から一刻も早く逃れたかった。屋敷を出るとき、シャルロッテは何気なく屋敷に目を向けると窓からヘンゼルがこちらを見ていた。
目が合うとヘンゼルはすぐに奥に引っ込んでしまった。彼はシャルロッテの見送りに来たのだろうか。しかし、話しかけることも躊躇われて、窓から眺めるだけにとどめたのだろうか。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。シャルロッテは無意識に胸に手を当てていた。母が「シャルロッテはこれから進学して身元のしっかりした方たちといっぱい知り合うわ」と言っていたことを思い出す。
そうだ。これから進学してたくさんの友人と出会うだろう。母は口にこそしなかったが、婚約者でも見つけてくれば万々歳と考えていたかもしれない。
シャルロッテの輝かしい未来は首都にあって、こんな陰鬱とした屋敷にはない。それだというのに、出立前にヘンゼルの甘い蜂蜜色の瞳と目が合ってしまったから、まだ何も知らなかった頃の綺麗な思い出が胸を引っ掻く。
「シャル、元気でやるんだよ。毎月、手紙を書きなさい」
父の端正な顔立ちは陰っていた。ラピスラズリの目の下には隠しきれない隈がある。シャルロッテはいけしゃあしゃあとシャルロッテの見送りに来た父が信じられなかった。父はあの夜、シャルロッテが目撃したことを知っているはずなのに。
ヘンゼルの「旦那様にとって、わたしは人間ではありません」という言葉が蘇る。人間扱いしていないから、不貞にも満たないと考えいるのだろうか。
もし、ヘンゼルが女の子だったなら。拾ったみなしごを愛人にするなど本当に悍ましいことだが、父の行いにも「妻が男の子を産めなかったから、代わりに産んでもらう」という筋書きがなんとなく掴める。
しかし、ヘンゼルは男の子だ。妊娠することはない。だからこそ余計に、教会の教えに反しているという背徳とその行為の悍ましさが大きくなるような気がした。
「手紙を書くようなこと、無いかもしれないわ」
シャルロッテは冷たく言い放った。父と会話するのは舌が腐るような心地がする。
「書く内容はなんでも良いから、父様を安心させておくれ。お前が手紙を書き続けている間は、父様は学校に寄付金を納める」
これは明確な脅しだった。寄宿学校は学費のほかに寄付金を納めるという暗黙の了解がある。寄付金が途絶えたら、放校になってしまう。父は手紙を書かなければ学校を辞めさせると言っているのだ。
「…わかりました」
シャルロッテは渋々頷いた。父は母が亡くなってから母に似ているシャルロッテを手放したく無いと思っているのだろう。母が壊れて行った時は、逃げるように仕事に没頭したくせに、今では出来るだけシャルロッテとの時間を作ろうとし、シャルロッテをまるでよちよち歩きの子供のように扱う。
父が別れのハグをしようと、腕を広げる。シャルロッテはそれだけはできないと感じ、体が強張った。いつも通りの理想の父を演じ続ける父が怖かった。
「私、もうそんな子供じゃないわ。もう行かなきゃ」
シャルロッテは強引に切り上げて、馬車に乗り込んだ。屋敷の窓を見るが、そのどこにもヘンゼルの姿はなかった。
***
馬車の中でシャルロッテはヘンゼルのことは忘れてしまおう、今は新たに始まる学校生活に目を向けようと意識しても、記憶の中のヘンゼルの輪郭は濃くなるばかりだった。
シャルロッテに向けてくれた微笑みや優しさは嘘だったのだろうか。「私の気持ちに薄々気づいていながら、私のこと嘲笑ってたんでしょう!?」とシャルロッテが問いかけたとき、本当はどんな風に返して欲しかったのだろうか。
「どうして、父の愛人を好きになっちゃったのかしらね」
父が母を裏切っていたのもショックだった。だがその相手が初恋の人だったことにシャルロッテが一番傷ついていた。シャルロッテは母のためには怒って憎悪を膨らませたのではなく、自分のことしか考えていなかった。
そんな薄情な娘の存在なんて母が忘れてしまっても仕方がなかったのかもしれない。母が欲しかったのは男の子でシャルロッテではなかったのだから。きっと母はシャルロッテを見るたびに引け目を感じていたのかもしれない。
車輪が泥をを跳ねさせている。馬車はぬかるみにはまりながら途中で何度か止まったが、無事に首都までシャルロッテを送り届けてくれた。
寄宿学校はもともと男子校だったところを女子の教育の道が開け、女子学部が設立された。女子寮の四人部屋に荷物を置き、ルームメイトたちに挨拶をした。
寄付金の額により、個室か四人部屋かに分かれるらしい。シャルロッテのような下位貴族の娘のルームメイトたちとは価値観が合うので仲良くなれたが、一人部屋を与えられるほどの高位貴族の令嬢たちとは相容れなかった。
「アイゼン男爵領と言いますと、クズ鉄業で成り上がったお家じゃございませんこと?」
「みっともない赤毛ですわね」
広大な領地と荘園を抱える大貴族の娘たちにとって、シャルロッテの出身もみじめな赤毛も嘲笑の的だった。新入生歓迎会で、シャルロッテは贄として吊し上げられた。
「みなさま、そのような言い方をするものではなくてよ」
尞の中で一番大きな個室を与えられている公爵令嬢のエルフリーデ・フォン・ベルクの一声により、皆が静まり返った。少々、大貴族故の小馬鹿にしたような響きがあったが、それでもエルフリーデのおかげでシャルロッテが馬鹿にされる時間は終わった。
「…あの、エルフリーデ様。先程はありがとうございました」
シャルロッテがこっそりお礼を言うとエルフリーデは自慢の縦ロールに巻いた金髪を揺らしながら悠然と笑った。彼女の金髪も美しく、手入れされているようだったが、なぜかヘンゼルの金髪ほど心惹かれなかった。
エルフリーデの金髪を見て、シャルロッテはヘンゼルの髪を三つ編みにして遊んだ時のことを思い出した。ヘンゼルは「これでも男なのに」と恥ずかしそうに笑っていた。
「諌めるのも、上に立つものの務め。未来の王妃として当然のことをしたまでですわ」
エルフリーデは扇子で口元を隠しながら上品に目元を細める。エルフリーデはハインリヒ王太子の婚約者であり、卒業後結婚することが決まっていた。
結婚相手を探さないといけないシャルロッテとは大違いである。昔はシャルロッテは父の後を継ぐために婿を取らなければいけないと考えていた。でも、今は早く嫁に行って卒業後にあの屋敷に帰りたくなかった。
母がヘンゼルをシャルロッテの友人にすることにあれだけ嫌悪感を示していたのは、シャルロッテがヘンゼルに向ける視線に好意を感じ取っていたのかもしれない。母にとっての最悪はシャルロッテがヘンゼルを友人以上に思い婿にしてしまうことを危惧していたのでは無いか。
「エルフリーデ様、とてもお美しい金髪ですね」
シャルロッテはヘンゼルのお日様のような匂いがする金髪を思い出していた。愛憎とともに黒く塗りつぶされるかと思っていた思い出は遠く離れた土地では、濃霧に絡めとられたかのように朧げだった。
「あら、ありがとう。あなたの赤毛も…とてもチャーミングよ」
エルフリーデにも赤毛に対する偏見はあったのだろう。少し言い淀んだが、自分の偏見を飲み込んでシャルロッテを褒めた。
***
父への手紙は当たり障りの無い文章を書いて、送った。昔のシャルロッテだったら、友達ができただとか、部屋はこんな感じだとか、面白おかしく何枚でも手紙を書いただろう。
しかし、今は手紙とは会えない家族との時間を補う方法ではなく、父が寄付金や学費を途絶えさせないようにするための一種の試験だった。
今頃、ヘンゼルは何をしているのだろうかとシャルロッテはふと考えた。あの陰鬱な屋敷の地下室で父に抱かれているのだろうか。シャルロッテも母もいないから二人は蜜月のように過ごしているのか。
便箋に走らせている羽ペンを持った手を止めた。本当はヘンゼルをあの暗い屋敷に残してきてはいけなかったのでは。ヘンゼルは「あなたは私にとって暗闇に現れた光だから」と言った。
あの時、本当はシャルロッテは「あなたのことが好きで、愛している」と言って欲しかったのではないか。父はヘンゼルを塵のように、奴隷のように扱っているのではないか。それを、シャルロッテは愛人と解釈した。
「本当は、私があの屋敷からヘンゼルを連れ出してあげなきゃいけなかったんじゃないの…?」
あの時は目の前の出来事がショックすぎて気づけもしなかった。どうしてヘンゼルは父に「愛されている」と思ってしまったのだろう。無理矢理、虐待されていただけではないのか。
シャルロッテだけが、ヘンゼルの暗闇に一筋の光を差せたのでは。シャルロッテはヘンゼルを拒絶して、置いてきてしまった。あの父という怪物が住う屋敷に。
ヘンゼルを置いて逃げてしまった。だが、シャルロッテにはもう自らあの仄暗い檻の中に帰って行ける勇気はなかった。




