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4話 葬列

 父と母がもうこれ以上話し合っても無駄だという雰囲気を醸し出し始めたとき、シャルロッテは足音を忍ばせてその場から離れた。盗み聞きしたことをばれてはいけなかった。


 雨はまだ続いていた。昨日、一時だけでも晴れていたのが嘘だったかのように、濃霧と雨は屋敷を包んでいる。誰もいない廊下を、両親の寝室から離れたのに忍足をやめられず、ひっそり歩いていた。


 「…シャルロッテ」


 呼び止められ、シャルロッテはゆっくり振り返った。振り返る間、頭は振り返るなと警鐘を鳴らしていた。甘い福音のような声が誰のものであるかをよく知っていたから。


 「よく私に話しかけられたわね」


 シャルロッテは眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。今までヘンゼルに向かってこんな冷たい口調で話すことはなかった。


 「少しだけ、話を聞いてくれませんか」


 ヘンゼルはまたシャルロッテが何も聞きたくないと拒絶すると思っているようで不安そうだった。シャルロッテも反射的に耳を塞ごうとしたが、どんな言い訳を並べるのか興味があった。


 父の後ろ盾を得て、愛人としてふんぞりかえるのだろうか。ヘンゼルはあの夜、何か誤解があると言っていたが、誤解なんてあるわけがない。裸で抱き合っているのに、何の誤解があるのだろう。


 「あなたを傷つけてしまったことを謝ります。汚らわしいと思って当然です」


 「私を騙して、父と淫らに戯れて…楽しかった?」


 シャルロッテは意地悪く笑おうとしたが、うまく笑えなかった。ヘンゼルが傷つく言葉をわざと選んで、彼の表情が曇る様を見れば胸がすっきりするかと思ったが、そうはならなかった。


 「楽しい…わけありません。でも、わたしはあなたたちの家庭を壊すつもりじゃない。むしろ、家庭が円満にうまく回るように…あなたのお父様の捌け口になっているんです」

 

 浅ましい自己弁護だと思った。家庭の円満に協力しているのだから感謝しろとでも言いたいのだろうか。シャルロッテは自分が捻くれていることを自覚していた。


 「愛し合っているわけではありません。あなたのお父様が良き領主、良き父、良き夫のままでいられるように。突然、誰かに暴力を振るったり、喚き散らしたりしないように…」


 もうシャルロッテにとって父は「良き父」ではないし、母にとっても「良き夫」ではないだろう。ヘンゼルの存在はそこにいるだけで周りを壊す。


 「いったい、どういう気持ちで私のそばにいたのよ」


 シャルロッテは精一杯ヘンゼルを睨みつけた。涙が滲んでいるから、その睨みに迫力などないことはわかっていたが。

 

 「私の気持ちに薄々気づいていながら、私のこと嘲笑ってたんでしょう!?」


 シャルロッテはヒステリックに叫んだ時、ようやく母との血のつながりを感じた。母みたいにいつも顰めっ面をしている人にはなりたくなかったのに。


 「あなたに申し訳なく思っています。あなたは私にとって暗闇に現れた光だから。あなたのお父様は、あなたたちのことを捨てたわけではありません。今でも一番に愛してらっしゃいます」


 シャルロッテや母、家庭が父にとって一番であるのならヘンゼルは二番なのだろうか。自分たちが父の中で順位づけされているかもしれないことが気に食わなかった。娘や妻を、愛人と並べないで欲しかった。


 「旦那様にとって、わたしは人間ではありません。欲を処理するためだけの塵です。あなたたちの何かを壊すことはありません」


 「あなたがいるだけで、壊れていくのよ」


 シャルロッテの初恋は粉々に壊された。母も壊れかかっている。父がたとえヘンゼルを人間だと思っていなかったのだとしても、教会の教えに反するあんな悍ましい行いをしたのは、やはりヘンゼルがいたからなのだろうか。


 「もうこれ以上私の心をかき乱さないで」


 あとは夏を乗り越えれば、秋になって入学時期になる。そうすればシャルロッテはこの屋敷から出て行けて、首都の学校に行くことができる。あともう少しの辛抱なのだ。


 ホームシックで帰りたくなるだろうと心配していたのに、屋敷から出られることを心待ちにしていた。ヘンゼルの人生に長く登場したいと願っていたのに、今はシャルロッテの人生から早くヘンゼルを退場させたい。


 シャルロッテはヘンゼルに背を向けると、足早にその場を立ち去った。ヘンゼルは「待って」とは止めなかった。ヘンゼルの首のあざに気づいたとき、シャルロッテはヘンゼルを呼び止めたが、ヘンゼルは立ち止まらなかった。あの夜を見たとき、ヘンゼルはシャルロッテを呼び止めたが、シャルロッテは逃げた。


 もう言葉も届かない世界に分たれてしまったのだと思う。どれだけ対話を重ねようとも、互いを傷つけ合うだけで生産的な話をできる気がしない。先程、もうこれ以上話しても無駄だと会話を諦めた両親と同じ空気が二人の間に漂っていることが悲しかった。


 花畑に行こうという約束はまるで遠くの夢のようだった。あの時は、ずっと一緒にいたいと思ったし、声だってこんなに煩雑には感じなかったのに。あの夜の悪夢がシャルロッテとヘンゼルの関係を決定的に作り替えてしまった。




***




 それから、ヘンゼルはシャルロッテの視界に入らないように息を潜めて暮らすようになった。父との仕事の関係で出歩く以外は、あの薄暗い地下室から出ないようにしているようだった。


 最初こそ、ヘンゼルのいない生活はなんだか不思議で、ヘンゼルが来るまでの生活に戻っただけだというのに、シャルロッテは視界の端にあの美しい金髪を探すようになってしまった。


 憎悪は雪のように固く降り積もった。だが、溶けた後に愛が残っているのではないかと不安で、シャルロッテは自身の矛盾した感情を無視し続けることにした。入学まで耐えきれたら、この感情から解放されるのだと無意識に信じて。


 シャルロッテの変化より、母の変化の方が悲惨だった。最初は食欲がないと、食事を摂ることを拒否し始めた。父は仕事で忙しいから、同じ食卓につく機会が少ないので、時間が合えば必ず同じ食卓につくという家族の約束ごとは守られないようになった。


 父は自分さえいなければ母は食事を摂るだろうと考え、家庭から逃げるように仕事に没頭し、シャルロッテは父と顔を合わせないで済んで安心していた。


 しかし、母は父がいなくてもダイニングルームには来なくなり、部屋まで食事を運んでも食べなくなり、顔や髪を洗うこともなくなり、やがてはベッドから起き上がることもしなくなった。


 母は壊れてしまった。金髪の男の子の人形を「自分が産んだ息子」だと信じて抱っこしたまま横になる。シャルロッテという本当に産んだ娘の存在を忘れて。


 「お母様…」


 ベッドで横になりながら人形を抱いて子守唄を口ずさむ母にシャルロッテは話しかける。しかし、母はこちらを見ようともせず茫洋とした瞳で何も見つめてはいなかった。


 「私が男の子だったら良かったのに」


 そうすれば母はここまで憔悴しなかったのではないか。シャルロッテは母親譲りの自分の赤毛を掴んだ。大きくなれば金髪になるかもしれないと信じた無邪気な過去の自分を呪うように。


 「ねぇ、お母様。私よ、シャルロッテよ」


 シャルロッテは懸命に母に話しかけるが、母は何の反応も示さなかった。腕に抱いた人形──彼女からすれば自分が産んだ息子にしか興味がないようだった。


 「あなたの娘よ!」


 そう叫ぶと涙が溢れてきた。シャルロッテが泣いていたら「どうしたの? もうすぐ進学するのにいつまで経ってもシャルは泣き虫さんね」と母が苦笑しながら柔らかい手で撫でてくれることはもうなかった。


 父は壊れた母と向き合うのが怖くて、母を避け続けた。父が来ないから母は余計に狂うという悪循環に陥り、ある晴れた日のこと、母は階段から飛び降りて亡くなった。腕には金髪の人形が抱かれていて、目撃したメイドの話では人形を落としそうになって階段から落ちたということだった。


 母にとって人形は生きた子供に見えていただろう。その子供を落としそうになって助けようとして、母はバランスを崩した。打ちどころが悪く、そのまま帰らぬ人になった。


 曇天の空は今にも雨が降りそうだった。国の最北端に位置するアイゼン男爵領は、寒冷ながら日射量は多い。だが太陽が隠れて仕舞えば、夏だろうと急に冷え込むのだ。


 白木の棺には亡くなるときに離さなくてそのまま硬直してしまい取り外すことができなかった人形とともに葬られた。


 ぬかるむ道には転々と黒いインクを垂らしたように喪服に身を包んだ人たちの葬列がまばらに並ぶ。母は代々アイゼン家の人間が葬られる鬱蒼としたヒースが生い茂る墓地に埋葬された。


 父は深く嘆き悲しみ墓石に「我が最愛の妻であり良き母ゲルダ・ツー・アイゼン、ここに眠る」と彫った。シャルロッテは墓石を飾り立てるくらいなら、生前に愛の言葉を惜しまなければ良かったのにと唇を噛み締めた。


 父は良き領主の仮面を脱ぎ捨て、ただの男として母の棺に縋りつき「埋めないでくれ」と懇願したものの、近習たちが取り押さえているうちに、地元の青年団たちが土を被せた。


 父は棺が閉じられる前に、何度も母に口付け、埋められたあとには母の眠る土にまで口付けた。


 父が母を裏切らなければ、母は死ななかったのかもしれないのに。公衆の面前で父を糾弾することなどできないシャルロッテは、ただ手を握りしめて葬儀が粛々と進むのを見守るしかなかった。


 「あの子供は葬儀に顔を出さなかったわね」


 事情を知らないメイドたちが、屋敷で世話になっている身のくせして奥様の葬儀に参加しないだなんてとヘンゼルを責めたてた。


 しかし、母はヘンゼルが──父の愛人が自分の葬儀に参加するなんて許さないだろう。それに、ヘンゼルがこの場に現れたらシャルロッテも取り乱してしまうかもしれなかった。


 シャルロッテは癖になってしまったように、視線を彷徨わせてあの美しい金髪を探す。見つけたくない、と念じながら。そして、あの陽光に愛された金髪は見つからなかったのである。

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