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3話 崩落

 カタン、と床が軋む音を出してしまって部屋の中の音が止まった。シャルロッテは早くこの場から立ち去らないといけないとわかっていても、へたり込んでしまった足腰が言うことを聞かなかった。


 ゆっくりドアが開かれる。肌を隠すように服を押さえているヘンゼルが出てきて、シャルロッテの姿を見ると目を見開いて息を呑んだ。


 「シャルロッテ…?」


 ヘンゼルは床に座り込むシャルロッテに心配そうに手を伸ばす。シャルロッテは反射的にその手を振り払った。


 「触らないで、汚らわしい!」


 その言葉がヘンゼルを傷つけるとわかっていた。ヘンゼルの顔が歪んだ。今にも泣き出しそうな顔だ。シャルロッテの言葉でヘンゼルを傷つけたとわかっているのに、シャルロッテは傲慢にも自分が傷つけられたかのように感じた。


 嘘つき! 最低! 最低! 叫び出したかった。母を裏切っている父には失望したし、シャルロッテの淡い初恋を壊したヘンゼルにも失望した。シャルロッテが好いているのに薄々気づきながらも、父に愛されながら内心馬鹿にしていたんじゃないかと疑心暗鬼になる。


 わかっていた。勝手に自分一人だけ恋の熱に浮かされて、自分が理想化したヘンゼルを好いていた。勝手に期待して、勝手に失望している。


 「シャルロッテ、待って。何か誤解を…」


 ヘンゼルは言い訳を続けようとしたが、シャルロッテは拒絶するように耳を塞いだ。女装姿のヘンゼルはまるで女の子のように見えて、美しかったがそれを素直に賞賛する気にはなれなかった。


 目の前でこんなに悍ましいことが行われていたのだとしても、一瞬だけでもヘンゼルのことを美しいと思ってしまう自分に吐き気がした。


 「何も聞きたくない!」


 シャルロッテはヘンゼルの声を掻き消すように絶叫すると震える足を叩いて立ち上がり、走り出した。手元の灯りにしていた燭台は地下に置いてきてしまった。どうやって暗闇の中で躓かずに部屋に戻ってこれたのかわからない。


 父と初恋の男が愛し合う光景が、頭から離れなかった。忘れたいのに、忘れまいとするように何度も何度も繰り返し頭の中で再生される。ヘンゼルの艶めかしい息遣いやベッドに散らばった髪、その柔い肌の白さだけが鮮明に思い出される。


 「……憎い」


 ヘンゼルは家庭を壊した異物だ。ヘンゼルさえいなければ父は母を裏切らなかったのかもしれない。シャルロッテも、叶わない初恋を抱えずに済んだ。全てはあの霧雨の日に、父がヘンゼルを連れてこなければ。


 身を燃やすような激情が身を包んでいた。狂おしいほど愛おしいのに、それと同じくらい憎らしい。シャルロッテは父の裏切りと小さな愛人の存在をどうやって母に伝えたらいいかわからなかった。


 母は薄々わかっているのだろうか。だが、シャルロッテが最後の決定打を伝えてしまうのはとても怖かった。母のためじゃなく自分のためだ。


 母を不幸に陥れる最後の一押しをしたくなかった。母を崖から突き落とすようなものだから。だが自分一人で抱えていくには大きすぎる問題だった。


 母はこのことを知ったら父と離縁するのだろうか。しかし、母は実家と折り合いが悪くシャルロッテも母方の親戚と会ったことはない。それに母は妾などの夫の火遊びは正妻として余裕を持って構えていようと耐える古いタイプの女性だから。


 まだ母にとっては疑惑でしかない事象をシャルロッテの言葉で確信に変えてしまったら。母はどうなってしまうのだろうか。母に裏切りを目の前に突きつけながら、それでも耐えろと強いることになるかもしれない。


 母はこの家を出て行ったら頼るあてがないし、シャルロッテの進学などもある。シャルロッテのために離縁はしないという選択をするかもしれない。


 「どうしたらいいの…」


 布団を頭から被って枕を抱きしめるとシャルロッテは自然と涙が溢れてきた。父の腕の中で乱れるヘンゼルは本当にシャルロッテが好きになったヘンゼルなのだろうか。日焼けした筋肉の上に汗を滴らせていたのは、敬愛すべき父だったのだろうか。


 父とヘンゼルの皮を被った淫魔がシャルロッテに悪夢を見せただけなのでは。泣き疲れていつのまにか眠ってしまったようで、目が覚めた時には太陽は高く登っていた。


 寝坊を母から叱られると慌てたシャルロッテはすぐに飛び起き、メイドたちから湯をもらって洗顔を済まし服を着替えた。父とヘンゼルの裏切りの悪夢が、本当に夢であるよう祈りながら部屋を出た。


 しかし、居間にもダイニングルームにも父や母、ヘンゼルの姿はなかった。父やヘンゼルにどんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、会わなくてよかったが母とは一度向き合わなければならないと思っていた。


 両親の寝室に向かうと中から母の甲高い泣き声が聞こえてきた。母はヒステリックに泣き叫んでいるようだ。


 「私のどこが悪かったというの。女の子しか産めなかったから、責めているの!?」


 シャルロッテはその言葉を聞いて足を止めた。女の子しか──シャルロッテしか産めなかったから。シャルロッテを産む前に母は何度も流産を経験したらしく、空に帰ってしまった兄姉たちがいるのだと聞かされたことがあった。


 シャルロッテが男の子だったら母はこれほどまでに嘆かなくて済んだのでは。


 「みなしごを屋敷に置いておこうなんて、おかしいと思ったのよ。妾に産ませた子なんでしょう!? 私に当てつけるように男の子なんて…!」


 シャルロッテは母の言葉にどきりとした。シャルロッテが考えていた父がヘンゼルを屋敷に引き取った理由と違ったからだ。シャルロッテはヘンゼルが戦災孤児であるから父は自分の贖罪のために屋敷に引き取ったと考えていた。


 そしてヘンゼルを幼い愛人にした。しかし母の推論だとヘンゼルはシャルロッテの異母兄弟に当たることになる。父にとって血を分けた息子であるなら、引き取った理由が贖罪より納得できるのだ。


 ただし、愛人にした理由は納得のいくものからかけ離れていくが。自分の息子の首を絞めるだろうか。父がヘンゼルを愛人にした理由は、シャルロッテの推論、母の推論、どちらを当てはめても何もわからない。


 「ゲルダ、落ち着いて」

 

 父の優しい穏やかな声が聞こえてシャルロッテは冷や汗が出てきた。母が何か言い争っているなら、その相手は父しかいないはずなのに。いざ、ドアを一枚隔てただけの向こう側に父がいるのだとわかると、震えが止まらなかった。


 「お前は何も悪くないし、責めてなんていない。妾に産ませたなんて、お前の悪い想像だよ」


 父の声を聞きたくないし顔だって見たくないのに、シャルロッテは母の様子が心配という言い訳をして、ドアの隙間から中を覗いた。


 父が母の小さな肩を抱き寄せ、背を撫で、額にキスをしているところだった。女をすぐ泣き止ませようとする、慣れた手つきだった。今まで父が母に愛情表現する様を何とも思ったことはなかったのに、とてつもない嫌悪感を感じた。


 「なら、今すぐあの忌々しい子をどこか遠くにやってくださいな。私はあなたが不在がちの間、ずっとこの屋敷を守っていたのですよ。この屋敷に、あんな子がいるなんて耐えられない!」


 母は自分の頭を掻きむしるように髪を掴んだ。


 「あの子は仕事に有用なんだ。賢い子だよ」


 母の気持ちに寄り添っているようで突き放すような父の言い方に反感を覚えた。父はヘンゼルが火薬の研究を手伝ってくれていて、今の火薬では坑道を掘る時、爆発力が強すぎて周囲の岩盤に影響を及ぼすということを、淡々としかし幼子に諭すように説明した。


 「私が悪くない…なんて、これっぽっちも思っていないんじゃない! 私が大事だと思っているなら、迷わず私の願いを聞くはずなのに」


 シャルロッテは以前、母は父をどうやってものにしたのだろうと疑問に思ったことがあった。しかしそれは間違いだった。母は父をものにしたことなどなく、父は母の手の中に収まっていた時など一時もないのだと。


 「ダミアン、どうして私にこんな酷い仕打ちを…!」


 母は泣きながら恨めしそうに父を見上げていた。

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