2話 花を育てたい
暖かな日差しが降り注いでいた。霧雨がよく降るアイゼン男爵領の春はいつも雷鳴を伴っているが、今日は久々の晴れた日だった。
「お嬢様、どこにいらっしゃいますか?」
目隠しをしたヘンゼルが手探りで芝生や木々に触れながらシャルロッテを探している。長い金髪は後ろで一つに束ねられている。
「お嬢様だなんて味気ない呼び方しないで。シャルロッテよ!」
シャルロッテの声の出所から場所を割り当てたのか、ヘンゼルは目隠しをしながらもまるで見えているかのように走り、シャルロッテの肩を掴んだ。
「捕まえた。これで目隠し鬼はわたしの全勝ですね」
「私の優しさを利用して声を出させて場所を割り出すなんて卑怯よ」
「お嬢様が…いえシャルロッテがちょろいからですよ」
ヘンゼルは目隠しを外しながら笑った。範囲はアイゼン邸の庭の一画と定め鬼ごっこをしていた。足の速さではヘンゼルに敵わないので目隠しというハンデありで遊んでいた。
ヘンゼルが初めてこの屋敷に来た日から数ヶ月が過ぎている。父の意向とシャルロッテの懇願により母は折れて、ヘンゼルをこの屋敷に置いてやることを許していた。
「シャルロッテ、またあなたはお勉強をさぼって! 入学まで時間がないのですよ。同級生に置いていかれるのは嫌でしょう」
窓から母が庭を見下ろしていた。窓を開け放ち、シャルロッテにお小言を垂れる。そしてシャルロッテのそばにヘンゼルがいるのを見て母は眉を顰めた。
渋々屋敷に置いておくのを許しただけで、母はヘンゼルを忌み嫌っていた。文字も読めないヘンゼルを母は野蛮人だと決めつけて、シャルロッテの教育に悪いと考えている。
「はぁい、お母様。でも今日のお勉強はもう終わりよ」
「あなたも秋が来れば進学するのですから、もう少し淑女らしくなさい。走り回るなんてもってのほかですよ」
母はそう言いつけると奥に引っ込んだ。勉強は滞りなく進んでいるし、息抜きくらいしたい。それにシャルロッテがヘンゼルに文字を教えて読めるようになっているから、そのうち気づいて母はヘンゼルを「野蛮人」だとは罵れなくなるはずだ。
ヘンゼルの生まれ故郷は文字ではなく口伝で物事を継承していく土地だったらしい。全てを頭の中にしまっているからか、ヘンゼルの話す物語はいつも面白く、シャルロッテに新しい世界を見せてくれるのだ。
「シャルロッテ、次は何をしますか?」
ヘンゼルが後ろで腕を組みながら、尋ねてくる。彼は今は自分のサイズのあったシャツにサスペンダー付きのズボンを着ていた。「シャルロッテの服を着せるわけにもいかないし」と父が買い与えたものだった。
「ねぇ、ヘンゼルの故郷に伝わるメルヒェンを教えてよ」
シャルロッテは古いサクランボの木の下に腰掛けた。庭にはライラックが咲き誇っている。隣にヘンゼルも腰掛けた。彼からは甘い香りがする。蜜のような、ミルクのような、葡萄酒のような。香水などはつけていないだろうから、彼の体臭なのだろう。それがとても落ち着いた。
「わたしの故郷のメルヒェンは暗くて悲しいものばかりですから。もっと楽しい話を聞かせたいです」
「じゃあ、ヘンゼルの故郷はどんなところ」
故郷の話題を振ると、ヘンゼルの顔が曇る。
「本当に何もないところですよ」
何もないとは田舎などに住む人が土地のことを謙遜しているのだと思った。
「何もないわけないじゃない。人が住んでるのよ」
シャルロッテがそう言うとヘンゼルは切なそうに微笑んだ。
「本当に何もないんです。戦争で焦土になってしまいましたから」
その言葉にシャルロッテは息を呑んだ。父は若い頃、戦争に騎士として従軍したらしいという話だけは聞いていた。戦地になった場所に住んでいた民族は離散してしまった。
もしかしたら父がヘンゼルを引き取ったのは、ヘンゼルが自身の過去の過ちにより土地を追われた住民だと知ったからかもしれない。母の言う通りに孤児院にヘンゼルをつれて行かなかった。
「死屍累々の土をミヤマガラスたちは平気で歩いていた。何もなかったみたいに」
そこでヘンゼルはハッとしたような表情になった。
「ごめんなさい。暗い話はしたくなかったのに」
自分でも無意識なようだった。ヘンゼルは故郷の記憶へと引きずられたのだ。
「いいの。ヘンゼルのこと知りたかったから」
シャルロッテはそっとヘンゼルの手に自分の手を重ねた。まるで陶器のような肌に見えるのに、思いの外手の皮膚が分厚くなって固くなっているのに気づき、彼が労働者階級であることを思い出した。
ヘンゼルは屋敷で今は父の仕事の助手のようなことをしている。部屋は地下室を与えられていて、本が置いてある。羊皮紙には大量の化学式が記されていて、採掘に使う火薬の研究をしているらしい。
「ヘンゼルの故郷は、きっと素敵な場所だったはずよ」
今はもう焦土になってしまった土地に思いを馳せた。
「…そういえば一つだけ故郷にもいいところがありました。戦火に包まれる前、花畑があったんです。色とりどりの花が咲いていました。あなたにも見せたかった」
ようやくヘンゼルの目が柔らかく緩んだように見えた。
「いつか行ってみたいな。それで花を育てて、花畑を復活させるの」
土壌がどれほど変わっているのかはわからなかった。不毛の大地になってしまっているかもしれない。それでも花を植えたいと思った。
「いつか、必ず連れて行ってね。案内してよ」
「ええ。いつか」
ヘンゼルはシャルロッテの子供っぽい考えを否定せずに微笑んでくれた。その笑顔にシャルロッテはどきりとした。胸が高鳴って痛いくらいだった。
ヘンゼルがこの屋敷にずっと居てくれるように未来の約束をした。ヘンゼルの人生に少しでもシャルロッテを登場させたかった。秋になればシャルロッテは寄宿学校へ進学してしまう。長期休みにでもならない限り、家には帰れない。
ヘンゼルが父の仕事を手伝ってくれているうちは、ヘンゼルはこの屋敷にいるだろう。シャルロッテの帰りをこの屋敷で待っていてくれる。
ヘンゼルがずっとこの約束を──シャルロッテのことを覚えてくれたらいいと思った。それが芽吹いたばかりの淡い恋心であることは隠しきれなかった。
ヘンゼルの襟元から首筋がちらりと覗く。喉仏の形に、やはりどんなに顔が中性的に美しくともヘンゼルは男なんだとシャルロッテは唾を飲み込んだ。しかし、乳白色の首筋に広い範囲で青黒い鬱血痕があった。
まるで紐が巻き付いているかのようで、処刑される人のようだった。
「ヘンゼル、首を怪我したの?」
シャルロッテが尋ねながら、よく見ようと顔を近づけたとき、ヘンゼルは怯えたように肩を振るわせ、すぐに首元を襟で隠した。
「怪我なんてしてませんよ。心配しないでください」
ヘンゼルはシャルロッテと目を合わせなかった。「もう仕事に戻らないと」と立ち上がって逃げるように屋敷に入っていく。
「ま…待って!」
シャルロッテが呼び止めようとするがヘンゼルはシャルロッテを置いていってしまった。今までヘンゼルがシャルロッテの言葉を意図的に聞こえないふりをしたのは初めてだった。
何か、まずいことをしてしまったのだろうか。嫌われてしまったのだろうかとシャルロッテは不安に陥った。
その夜、シャルロッテは決心した。何がヘンゼルの気を悪くしたのかわからないが謝りに行こうと。喧嘩──厳密には喧嘩ではないのかもしれないが、わだかまりを抱えたまま日を跨ぎたくなかった。
日を跨いでしまえば、もっと事態は拗れてしまうような気がした。下手をしたら永遠にヘンゼルに許してもらえないような気がしたのだ。
シャルロッテはネグリジェの上にガウンを羽織って、小さな蝋燭の灯りだけを頼りに、寝静まった廊下を足音を立てないように進んだ。窓の外では春の嵐になっていた。雷鳴や雨音がけたたましく響く。
使用人たちのほとんどは通いで住み込みの使用人の部屋は屋根裏にある。しかし、ヘンゼルに与えられたのは地下室だった。
地下へ続く階段を軋ませないようにシャルロッテは慎重に一歩一歩降りていく。薄汚い廊下には獣脂の灯りすら灯らず闇に沈んでいた。シャルロッテの手元の蝋燭だけが光源であり、壁を伝ながらゆっくり進む。
ヘンゼルの部屋が見えてきた。ドアは小さく開いていて、その隙間から光が漏れていた。どうやらヘンゼルはまだ寝ていないらしい。きっと本を読んで夜更かししているのではないか。
部屋に近づくと、シャルロッテは足を止めた。どこからか啜り泣くような声が聞こえたからだ。その声は聞き馴染みのあるヘンゼルの声だった。彼の声は福音のような響きがある。
「ヘンゼ──」
シャルロッテは小さな声でヘンゼルを呼びかけようとドアの隙間を除いた。そして言葉を失った。乱れた寝台にはヘンゼルが押し付けられていて、体に引っ掛けたように纏っているはだけた衣装は女物だ。
日焼けしたたくましい腕が、ヘンゼルの乳白色の首を絞めている。その人物は最愛の父であった。二人の体は絡み合って、ときに重なりときには離れてを繰り返している。
「痛い…苦しい…助けて」
ヘンゼルの掠れた声が響く。
「苦しめてる張本人に助けを求めるとはな。痛いくらいが好きなくせに」
父は嗜虐的にくつくつと底から湧き上がるように笑いを漏らしヘンゼルの首にかかる手に力を込めたように見えた。父の体は興奮した獣みたいで、普段の理性的な姿からはかけ離れていた。
父は母を裏切っていたのか。ヘンゼルがシャルロッテに見せた愛情は全て嘘だったのか。ヘンゼルもこちらを好ましく思っているはずだと言うのは全て思い込みだったのだろう。だって父の小さな愛人だったのだから。
激しい怒りに包まれた。思えば母は最初からヘンゼルに対して嫌悪を隠そうとしなかった。薄々、ヘンゼルがこの家庭を壊す存在だと見抜いていたのかもしれない。
シャルロッテはその場にへたり込んだ。目の前の現実が信じられず、まるで果実が腐っていくように甘い匂いがするようでくらくらした。




