1話 霧雨が降る
霧雨が雪花石膏の窓に打ち付けていた。雨はぬかるみを叩き、泥の層に染み込んでいく。空は黒に近い灰色で、乳白色の霧はたなびきながら遠くの山々の姿を覆い隠してしまう。
パチパチと暖炉の薪が弾ける音が響いていた。
「もう少し暖かくしなさい。旦那様はきっとずぶ濡れでしょうからね」
母、ゲルダは娘であるシャルロッテにガウンを被せながらメイドに暖炉の火を強めるように命じた。燃えるような母の赤毛はシャルロッテにも受け継がれている。シャルロッテは常々、成長して赤毛が金髪に変わらないかと思っていた。
「お母様、暑いよ」
シャルロッテはせっかくの母の気遣いを脱ぎ捨てた。部屋は暖炉の熱気でむっとしている。シャルロッテが窓を開けると湿った空気が肌に触れ、産毛を撫でていく。
「女の子が体を冷やしてはいけませんよ。あなたは男の子みたいにわんぱくだから、母様はいつも肝を冷やしているわ」
シャルロッテは両親にとって遅くにできた一人娘だ。溺愛されて過保護に育てられてきたと自覚している。最近、両親はやっと可愛い子には旅をさせる決心をつけたのか、首都にある貴族の子女たちが通う寄宿学校に進学することが決まっていた。
父は領地の鉄鉱山の崩落事故現場の視察に向かっていて、今頃きっと雨に濡れていることだろう。母はメイドに湯を沸かすように言いつけている。
シャルロッテは冷えた空気の窓際から離れなかった。小高い丘の上に立っているアイゼン男爵邸は、古い石造りの堅牢な建物だ。
そこから領地が見下ろせる。決して広くはない森林地帯だが、国内でも有数の鉄鉱山を有しており、かつては国王の覚えもめでたかった。最近は採掘量が減っているので斜陽ではあるのだが。
白茶けた日干し煉瓦の家が立ち並び、麦畠とわずかな果樹園があり緩かに扇状に広がっている。街は曠野で途絶え、土色の岩肌が剥き出す稜線へと繋がっていく。
領民は果樹園で働いているもの以外はほとんど鉱夫だった。果実が熟していく期間はむせかえるほどの甘い香りが辺りを包み、頭がくらくらするほどである。
その時、橇を引く馬鈴の音が聞こえてきた。シャルロッテは窓から顔を出した。遠くに黒い影が見え、それがだんだんと近づき、馬と橇、そしてそこに乗る人の形をはっきりさせていく。
「お父様が帰ってきた!」
シャルロッテは玄関に走り、重厚な扉を押し開けた。雨粒がシャルロッテに降りかかり、湿った風が古い屋敷の中に入り込む。シャルロッテが前庭に出たとき、父ダミアンはちょうど橇から降りるところだった。
「お父様、おかえりなさい」
シャルロッテは雨に濡れるのも構わず、父に駆け寄った。父は毛皮の外套に何かを包んでいて、雨や泥だらけだった。
「ああ、ただいま。シャル、いい子にしていたか」
父はいつも通りそう言ったが、シャルロッテの頭を撫でてはくれなかった。腕に抱えたものの方に気を取られている。父は跳ね返った泥だらけだったが、日焼けした肌に黒髪、ラピスラズリの瞳はいつも通り眩いばかりだった。
我が父ながら、どんな格好だろうとかっこいいと思った。若い頃は──いや、いまでも相当な色男で、どうやって母は父をものにしたのだろう。政略結婚だったのかもしれないが、父は母を大事に思っていることは知っていた。
「お父様…それ…」
父が包んでいる外套がずれて、金髪が覗いた。シャルロッテは思わず息を呑む。父が抱えていたのは人間だった。泥まみれで性別はわからないが、それでも整った顔立ちをしていることがわかった。
「あなた…それは何です?」
母が顔を顰めながら、父が抱いている金髪の子供を指差す。痩せているが、シャルロッテと同じくらいの歳だろうか。
「領地の外れで拾った。湯を沸かしてくれ。この子は冷えてる」
「拾ったって、犬や猫じゃないんですよ!」
母は青ざめながら叫ぶ。泥だらけの見ず知らずの子供を由緒ある屋敷に入れたくないようだった。
「シャルロッテの友達にしてやればいいだろう。小姓として仕えさせればいい」
「シャルロッテはこれから進学して身元のしっかりした方たちといっぱい知り合うわ。わざわざ領地の端にいたみなしごなんかをそばに置かなくったって」
母の言葉に父の腕に抱かれていた金髪の子供はびくりと肩を振るわせた。その蜂蜜を溶かしたような琥珀色の瞳が不安そうに辺りを見渡す。母はその様子を不快そうに睨みつけた。
「わ、私がこの子をバスルームに連れてくわ」
父と母の争いから金髪の子供を守るようにシャルロッテは声を出した。父の腕から下ろされた子供の手を取ってバスルームに案内する。後ろからは父と母の争う声が聞こえていた。
「貴族の義務だよ」
「みなしごを雇ってあげなきゃならないの? 孤児院に届けてやるのではだめだったの?」
母はどうしても金髪の子供が気に入らないようだった。父は普段は母の意思を尊重して折れてやることがほとんどだが、たまに意思を曲げない時がある。今がその時なのかもしれない。
「濡れてるわ。早く服を脱いじゃって、暖かいお湯に浸かって!」
「あ…えっと」
金髪の子はおどおどしている。シャルロッテはふわふわのタオルで濡れた髪を拭いてやっていた。腰にまで届きそうな美しい金髪は、毛先の方になるに連れ緩やかなウェーブになっている。こびりついた泥などを丁寧に取ってやる。
「早く服を脱いで。私の服を着替えに貸してあげるわ。濡れたままだなんて風邪ひいちゃう!」
肌に張り付いた服を脱がすのを手伝ったが、金髪の子は恥ずかしそうに俯いていた。それは服を脱がせてからわかった。
「きゃあ! ごめんなさい、髪が長いからてっきり女の子だと」
滑らかな乳白色の肌、胸はまだ成長途中なのだと膨らみがないことなど一切疑問に抱かず、下半身を見るまでシャルロッテはその子が女の子であると決めつけていた。
金髪の子をバスルームに押しやってドアを閉めた。そしてシャルロッテは深いため息を吐いた。
「男の子だなんて…」
シャルロッテは顔が赤くなった。男の子の体を見るのは初めてだった。父のしなやかな筋肉がついた上裸を見たことはあったが下半身は初めてだ。
まつ毛がふさふさで長く、まるで天使のようで声変わりもしていなかったからわからなかったのだ。きっと神様がやる気がある時に造った人間だろう。シャルロッテは神様がやる気がない時に赤いインクを垂らしてしまったときの人間だ。
男の子なら、シャルロッテの着替えをそのまま渡してもいいのだろうか。結局、父のシャツをワンピースみたいに着せてやることにした。
「あの…ありがとう…ございます」
風呂から上がってきた金髪の少年は恥ずかしそうにシャルロッテにお礼を言った。濡れた髪が額に張り付いていて、まだ色香を覚える前の年齢だろうに妙に色っぽくてシャルロッテはどきどきした。
「さっきは本当にごめんなさい。お湯加減は大丈夫だった?」
「はい。暖かいお風呂ってはじめてでした」
金髪の少年は微笑んだ。暖かいお風呂が初めてという言葉に、この子は今まで苦労してきたんだと感じさせるには十分だった。シャルロッテは自分が恵まれた環境にいたことに胸が痛くなる。
「私はシャルロッテよ。お名前は?」
父の言う通り、この子をこの屋敷に置いて欲しかった。
「ヘンゼル」
ヘンゼルの声は清らかな讃美歌のようだった。とても綺麗で透き通っていて、その容姿と合わさって本当に天使なんじゃないかと思わせた。神様にもっとも愛された造形だ。
「わたしの存在が迷惑なら、すぐ出て行きますから」
ヘンゼルは先程の母の言葉を思い出しているのか、眉を下げた。
「そんなことないわ。私たちお友達になりましょう」
そうすればヘンゼルがこの屋敷にいていい理由になる気がした。父はヘンゼルをシャルロッテの友人兼小姓にしておきたいらしい。
「よろしくね。ヘンゼル」
シャルロッテはヘンゼルに笑いかけた。この出会いがシャルロッテを不幸な運命に引き摺り込むとは知らずに。




