13話 失楽園
「ヘンゼル、エルフリーデ様と面識があったの?」
「いえ、今日初めてお会いしました」
部屋に帰ってメイドたちを下げ二人きりになったのを確認するとシャルロッテはヘンゼルに尋ねた。ヘンゼルも不思議そうに記憶を辿ったようだが、首を振った。ヘンゼルは異国にいたし、この国に来てからはアイゼン男爵領にずっといたからエルフリーデと知り合う機会もなかった。
「あの女が、シャルロッテに酷いことをしたのに一言も謝らないので、怒りを抑えるのに必死でした。もし過去にあの女と出会っていたのなら、その時点で息の根を止めておかなかったことが悔やまれます」
「エルフリーデ様はあなたのことを知っているみたいだったけど…」
隠し攻略キャラ、チート、逆ハーレム、という不可解な単語の羅列にシャルロッテは頭を抱えた。エルフリーデには何か別の世界が見えているのだろうか。精神疾患が頭をよぎった。
その日は早めに休んだ。シャルロッテが眠れるようにヘンゼルが手を握っていてくれた。燭台の灯りがヘンゼルのまつ毛をきらきらと照らす。
「シャルロッテ、明日から少し留守にしてもいいですか」
「私から離れていくの、ヘンゼル?」
シャルロッテは引き留めようとヘンゼルの手を強く握った。彼が休暇を望むのは初めてのことだった。確かに働かせすぎではあったかもしれないが、ヘンゼルがシャルロッテのそば以外で安息を感じることなどあるはずがない。休暇は与えてもいいが、そばから離れないで欲しかった。
「ちゃんと帰ってきます。エルフリーデ、あの女にシャルロッテを傷つけた代償を払わせてきます」
ヘンゼルの言葉に変形した父の足が思い出された。ヘンゼルはシャルロッテのためなら止まらない。獰猛な犬が獲物の首を食いちぎるようだった。
頬を叩かれた時の血の味、ねずみの死骸の臭い、床に散らばった赤毛、ずたずたの教科書、泥水などが次々に思い出される。
「息の根をとめてはだめよ」
シャルロッテは囁くように言った。
「加減します」
ヘンゼルはシャルロッテの唇に触れるだけのキスをした。それが「おやすみ」と「行ってきます」を兼ねていることがわかった。シャルロッテはゆっくり目を閉じて今の感触を忘れないようにしようと思った。
翌日、ハインリヒがシャルロッテに会いにきた。傷つけた張本人であるエルフリーデと会ってシャルロッテが不安になっていないだろうかと心配していたようだ。
「今日は、金髪の彼はいないんだね」
ハインリヒは使用人たちを見渡しながら尋ねた。
「昨日、休暇を欲しがったので休みをあげたんです。彼はよく働いてくれるから」
「そうか」
ハインリヒは微笑みながら頷いたが、少し険しい顔になった。
「こんなことを言うのは、狭量だとわかっているんだが。彼をもう少し違う業務に異動させることはできないか」
「どうして?」
シャルロッテが尋ねるとハインリヒが視線を彷徨わせた。
「彼が君の忠実な従者であることはわかっている。君の世話をするにはメイドだけでなく男手が必要な時もあるだろう。だが、君たちの距離が近いのを……すまない、嫉妬しているんだ」
シャルロッテは表面上、笑みを浮かべながらも心が冷えていくのを感じた。
「彼はもう私と切り離せないような関係です。ヘンゼルは私にとって、なくてはならないんです」
ハインリヒの願いは到底受け入れられるわけなかった。ヘンゼルを手放すことなど考えられない。シャルロッテのために泥濘に沈むことすらできない男に言われたくなかった。
「そう…だよな。彼がそばで君を支えてくれたんだから。実家から唯一連れてくるくらいだし」
ハインリヒは無理に笑いながらも傷ついたような顔をした。ヘンゼルと比べて自分を選んでくれると期待していたような。
ハインリヒはせいぜいシャルロッテの車椅子を押すくらいしかしない。やってほしいとも思わないが、入浴、着替え、排泄補助をやれるわけがない。父に反抗してくれたことも、エルフリーデに復讐しに行ってくれるわけでもない。
ハインリヒが大切にしているのは、無数の労働の上に綺麗に保たれているシャルロッテを撫でているようなものだ。彼は汚泥の中を歩くだろうか。シャルロッテのために汚れて、自分という犠牲を差し出すだろうか。
きっとハインリヒの向けてくれる愛情は健全なのだろう。でも、どんな姿だろうと愛しているという言葉は嘘だ。ハインリヒは綺麗に整えられたシャルロッテしか知らない。
シャルロッテがベッドに放置され、床ずれで肌が荒れて骨が剥き出し腐臭がして、糞尿に塗れていたらきっとハインリヒは愛さないだろう。でもヘンゼルは迷わず手を取ってくれる。
「すまない。醜い嫉妬だった。忘れてくれ」
ハインリヒは恥ずかしそうに視線を逸らしたままだった。
***
糸杉が風で揺れている。窓ガラスをはーっと息を吐き曇らせて雑巾で磨き上げていた。
「どうして、こうなったの」
エルフリーデ慣れない水仕事で荒れた指先を見つめた。傷一つない白い指は消えていた。厳しい修道院では身の回りのことを全て自分でやらなくてはならない。
自分が乙女ゲームの悪役令嬢エルフリーデ・フォン・ベルクに転生したのだと知ったのは十四歳、寄宿学校に入学する直前だった。
ヒロインの子爵令嬢クリスタが王子、騎士、従者、義弟などと恋愛をするゲーム。メインヒーローであるハインリヒが推しだったエルフリーデはヒロインをゲーム開始の寄宿学校入学前に退場してもらってハインリヒと楽しい学校生活を過ごすつもりだった。
ハインリヒ以外の攻略対象にも幼少のころから闇堕ちフラグを潰していて、エルフリーデは自分だけの最高のハッピーエンドに辿り着いたと思っていた。
でも、ヒロインがいなくなったら代わりのヒロインポジションが現れる。システムという名の運命がエルフリーデに牙を向いた。
「シスター・エルフリーデ、新入りが入ったそうです。広間に集まってください」
中年の修道女がエルフリーデに声をかける。エルフリーデは小さく返事をすると雑巾を絞った。いつからルートを間違えたのだろう。隠し攻略キャラは一周目の世界では現れないはずなのに。
手をこすりながら広間に入ると、シスター見習いを示す修道服をきた金髪の人物が院長の隣にいた。髪は長く顔も美しいが、エルフリーデは息を呑んだ。
「みなさん、新入りのシスター・ヨハンナです」
ヨハンナと紹介された人物は女にしては背が高く男にしては声が高かった。エルフリーデは末端から震え始める体を押さえつけようとした。だって「彼」は、隠し攻略キャラの──
「シスター・エルフリーデ。初めての後輩ですね。しっかり規律を教えてあげてくださいね」
院長が微笑みかける。エルフリーデは真っ青になりながら黙って頷くしかなかった。ヨハンナと二人きりになるとエルフリーデは恐る恐る口を開いた。
「あなた、ヨハネスでしょう。なぜ、ヘンゼルなんて名乗ってあの女のそばにいるの」
「親がわたしをそう呼んでいたんです。幼かったから、それが本名だと思っていて、大きくなってから本名がヨハネスだと気づきました」
ヨハネス──ヘンゼルは美しい笑みを浮かべたままだった。確か、彼は戦災孤児の背景を持っていてヒロインに出会うことで救われていく。
「でもシャルロッテがヘンゼルって呼んでくれるのが好きなんです。シャルロッテのそばにいることに理由が要りますか」
その瞳は恍惚としていた。まるでその人を思い浮かべるだけで幸せだというように。
「女のふりをして、修道院に来るなんて。私に何の用?」
ヘンゼルの思惑がわからない。ただシャルロッテが前世知識というチート技を使ってヘンゼルを攻略しそばに置いているようだ。それだけで満足せずにハインリヒまで狙うなんて。
「わかりませんか」
ヘンゼルは一歩、また一歩とエルフリーデに近づいてきた。エルフリーデは壁際に追い詰められる。
「あなたに復讐するためですよ。よくもシャルロッテを傷つけてくれましたね」
「あ…あなたは騙されてる。あの女は転生者で、前世知識でヒロインに成り代わろうとしているの。私の罪とされているものは全てあの女の虚言よ! せっかく頑張った私の世界を壊したの!」
エルフリーデの言葉を聞いても、ヘンゼルは悠然と笑みを浮かべたままだった。
「じゃあ、わたしの世界を壊したあなたはどうなんですか」
蜂蜜色の瞳には怒りが灯っていて、仄暗い笑みに変わっていた。




